第14話 大切な人の方向を指すコンパス
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そのコンパスは、少し古いものだった。
丸い真鍮のケースに、細かな傷。
針は赤と黒に塗り分けられているが、
北を指してはいない。
「こちらが、依頼の品になります」
依頼人は、獣人の青年だった。
種族は犬に近い。耳は垂れ、尻尾の動きが感情をよく表しているが、彼のはそれがほとんど動かない。
アキは、コンパスをじ、っと見ただけで言った。
「壊れてはいません」
青年は、ほっとしたように息をつく。
「……やはり、そうですか」
その様子に、東峰が依頼人へ疑問を問いかける。
「あの……差し支えなければ、
どのような不具合があると感じられましたか?」
青年は、コンパスを握りしめた。
「北を、指さないんです。
いくら回しても」
アキは、手袋をはめる。
「このコンパスは、
北を指すものではありません」
「……はい。それは、分かっています」
青年は、少し困ったように笑った。
「“大切な人のいる方向を指す”って……
そういう、品ですよね」
アキは、静かにうなずく。
「ええ」
依頼人と、アキの問答に東峰が、首を傾げる。
「それは……大切な方が、いらっしゃらない、というわけではなく……?」
「います」
即答だった。
「ちゃんと、います。今も。ずっと」
青年は、視線を落とす。
「……ただ、このコンパスが、
指す方向が、日によって違うんです」
東峰は、思わずメモを止める。
「日によって……ですか」
「昨日は、北西でした。一昨日は、南。
今日は……」
青年は、アキの手元を見る。
コンパスの針は、ゆっくりと回り、
やがて、東を指して止まった。
アキは、眉一つ動かさない。
「……このコンパスは」
しばらくして、告げる。
「正常です」
青年の肩が、少し落ちる。
「……そう、ですか」
「ただし」
アキは、続ける。
「あなたが思っている
“大切”とは、
一致していない可能性があります」
静かな言葉だった。
「……え?」
青年は、戸惑ったように瞬きをする。
「このコンパスは、
血縁、恋愛、契約、義務を、
区別しません」
アキの言葉に、東峰も首を傾げる。
「アキさん、それはつまり……?」
「感情の強さ、というより……
“今”の”彼の行動を左右している存在”を指すようですね」
青年は、はっとした顔をする。
「……行動、ですか」
アキは、コンパスを机に置く。
「守りたい人、ではありません。
失いたくない人、でもない」
針は、微動だにしない。
「“今のあなたが、
その人を基準に選択している相手”です」
青年は、しばらく黙り込んだ。
「……それ、
変わるものなんですか」
「変わります」
アキは即答する。
「人は、日々、選び直しています」
東峰が、小さく息を呑む。
「昨日と今日で、
大切の意味が違う、ということも……」
「珍しくありません」
青年は、コンパスを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……じゃあ、
これは、信用しないほうが……」
針が、わずかに揺れた。
アキは、それを見逃さない。
「いいえ」
「……え?」
「信用しすぎないほうがいい」
言い直す。
「このコンパスは、“正解”を示しません」
青年は、息をのむ。
「示すのは、あくまでも、“今のあなた”です」
長い沈黙。
やがて、青年は苦笑した。
「……便利なようで……少し、怖いですね」
「ええ」
アキは頷く。
「ですから、日常用です」
「……日常用?」
「人生の決断には、向きません」
東峰が、思わず微笑む。
「毎日持ち歩くと、
ちょっとした喧嘩の原因になりそうですね」
「……確かに」
思わず同意した東峰に、
青年は、少しだけ尻尾を揺らした。
立ち上がり、深く頭を下げる。
「ありがとうございました。
壊れていないと分かっただけで、
十分です」
コンパスをしまい、扉へ向かう。
去り際、振り返って言った。
「……副所長さん」
「はい」
「もし、明日また違う方向を指したら……」
アキは、少し考えてから答えた。
「それは、
あなたが、今日を過ごした証拠です」
そんなアキの言葉に青年は、少しだけ笑って、出ていった。
扉が閉まる直前に見えた
彼の尻尾は、
緩やかに揺れていた。
静かになった事務所で、東峰が尋ねる。
「……副所長。
“大切な人”って、
固定されないものなんですね」
「ええ」
アキは、書類を閉じる。
「固定されていると、
疑わなくなりますから」
「……疑うのは、悪いことでは……?」
「日常では、必要です」
しゅるり、と
アキが、手袋を外す音が、
鑑定事務所に響く。
「―― さあ、鑑定の時間です」
コンパスは、もうこの部屋にはない。
だが、
今日の方向を選んだ気配だけが、
部屋に残っている。
鑑定士たちの、
選び続ける日々は、
続いていく。




