第10話 主を失った使い魔の契約書(前編)
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夜の鑑定所は、昼間よりも静かだ。
静かというより、音が選ばれている、と言ったほうが近い。
外を渡る風の音は、扉の前で薄くなり、
街灯の微かな唸りは、窓ガラスに触れる前に消える。
残るのは、時計の針と、誰かが息をする音だけだった。
東峰は机に向かい、今日最後の記録を閉じるところだった。
ペン先を浮かせた、そのとき。
——からん。
鈴の音が一度だけ鳴った。
来客を告げる音としては、あまりに控えめだ。
けれど、静かな事務所には、充分すぎる音。
アキが顔を上げ、扉のほうを見る。
「……どうぞ」
アキの声だけが響く。
返事はない。
だが、ゆっくりと扉が開き、夜の気配が室内に差し込む。
入ってきたのは、小柄な獣人だった。
フードを深く被り、顔立ちは影に沈んでいる。
種族を断定するには情報が足りない。だが、歩き方が慎重すぎる。
この場所に、この時間に来る客は、だいたい二種類に分かれる。
期待を抱いてくる者と、覚悟を決めてくる者だ。
この獣人は、どうやら後者のようだった。
「……鑑定を、お願いしたくて」
声は低く、掠れている。
年齢は若くない。だが、古さとも違う。
「承ります」
アキは椅子を示す。
獣人はほんの一瞬だけためらい、それから腰を下ろした。
丁寧な動作で机の上に置かれたのは、一枚の羊皮紙。
折られ、擦り切れ、角は丸くなっている。
何度も広げ、何度も閉じられた跡。
一枚の契約書だった。
それも、かなり古い。
アキが手を伸ばそうとした、その瞬間。
「……先に、聞いてもいいですか」
獣人が言った。
「これは、もう……いえ……まだ効力があるんでしょうか」
獣人の質問は、問いかけの形をしている。
けれど、答えはすでに想像している声だった。
アキは短く、呼吸を整える。
「鑑定をしてみないと、正確なことは言えません」
「……です、よね」
獣人はそう言って、視線を落とす。
逃げ場を探している目だった。
その視線に、アキの手が、契約書を傷つけないよう、そっと触れる。
—— 音が、した。
魔力のざわめきではない。
呪式の軋みでもない。
もっと、私的な音。
誰かが、何かを手放さずにいる音。
「……これは」
耳を伏せたアキが、契約書を完全に広げた。
羊皮紙の中央には、二つの名が記されている。
主と、使い魔。
主の名は、見覚えのある、名の知れたもの。
―― 確か ―― 彼はすでに記録上“故人”となっている魔術師のはずだ。
死因も、死亡年も、確かだ。
契約が結ばれた日付は、その十数年前。
——おかしい。
アキのオッドアイの目が、つい、と細められる。
主従契約は、主の死と同時に自動失効する。
例外はほとんどない。
だが、この契約書は、まだ“呼吸”している。
「……アキさん」
背後から、東峰の声がした。
彼は壁際に立ち、客と距離を保ったまま様子を見ている。
獣人の存在に、緊張は見られない。だが、注意は怠っていない。
「……その……とても……不思議な音がします」
「ええ」
慎重に言葉を選んだ東峰に、アキは小さく頷く。
「これは、命令の音ではありません」
―― そう。
これは命令が残っている音ではない。
——執着だ。
「鑑定結果を、お伝えします」
アキは獣人のほうを見た。
「この契約は、すでに法的にも魔術的にも失効しています」
獣人の肩が、わずかに揺れた。
「……じゃあ」
「ただし」
アキが言葉を切る。
「この契約書そのものは、まだ“終わっていません”」
獣人は顔を上げた。
影の奥で、瞳が揺れる。
「どういう……」
「この契約は、主によって維持されているのではない」
アキの声が、はっきりと響く。
「契約を、あなた自身が、延命させています」
沈黙が落ちた。
長い。
そして、ひどく重い。
「……そんなこと、できるはずが」
「普通は、できません」
震える依頼人の声に、アキの声か続く。
「けれど、あなたは“普通の使い魔”ではありません」
契約書から伝わってくる音は、命令ではなかった。
それは、何度も、何度も自分に言い聞かせていた、依頼人の声。
激しくはない。
けれど、
耳の奥で、
胸の奥で、
何かを掻き乱すような、
そんな
強さを持った声だった。




