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第9話 夜に置いてきた名前

 その日は、複数の鑑定を終えた夜だった。

 


「先ほどの依頼で、予約分は終了ですね」


 予約リストを確認した東峰に、

 窓辺の定位置に座るアキの耳が、

 軽く揺れる。

 

 「東峰くん」

 

 ゆったりとした、低く心地よい声が、

 鑑定事務所の奥から響く。

 

 

 「今日は、これでおしまいにしようか」

 

 

 いつものように微笑んだ所長に、

 東峰は事務所扉の外についている看板を

 営業終了を知らせるものへと変えた。



 「……所長?」

 

 アキが不思議そうな声で、彼を呼ぶ。

 直後。

 

 「みんな、まだ少し時間はあるかな?」

 

 そう問いかけた所長に、

 皆が手を止め、静かに頷く。

 


「東峰くんは?」

「……はい。大丈夫です。所長、何かありましたか?」


 東峰が尋ねると、

 所長は、ゆっくり首を振った。


「いや。特別これと言ってはないのだけれどね。

 けれど、話したいことがある」


 所長の言葉に、東峰の背が伸びる。

 事務所の灯りは低く、外は静かだった。

 

 アキは、窓辺に腰をかけ、

 ぼんやりと外を眺めている。

 尻尾は低い位置で揺れたまま。


「東峰くん」


 所長は、穏やかな声で言う。


「君は、自分がどうしてここにいるか、考えたことはあるかい」


 自分を見る所長の距離は、そこそこに離れている。

 けれど、

 まるで、

 目の前で、問いかけられたような感覚に、

 東峰は、一瞬、言葉が詰まった。

 


「……人手が、足りなかったから、ですか?」



 小さく、間違いを恐れる子どものように、

 恐る恐る答えた東峰に、

 所長は、穏やかな目元のまま、くすりと笑った。


「それもある」


 ほんの一拍。


「でも、理由はそれだけじゃない」



 直後、そう言い切った所長に、

 事務所の中の空気が、ほんの一瞬、ふわりと動いた。




 立ち上がっていた所長が、

 引出しの中から

 一冊の、古い名簿を取り出す。

 紙は黄ばみ、何度も開かれた跡がある、

 刻を感じさせるものだった。




「昔ね」


 低く、少しだけ何かを、懐かしむような声。


「私は、一人の人間を選ばなかった」



 東峰は、息を呑む。

 アキの耳が、ピル、とわずかに動く。


「その人は、優秀だった。

 知識も、腕も、判断力も」


 名簿の、ある名前を指でなぞる。


「でも――

 “正しい側に立つ”ことを、迷わなかった」



 所長の言葉に、

 東峰は、チクリとした胸の痛みを覚える。



「私は、その人をここに入れなかった」


 それは、とても、

 ―― とても静かな告白だった。



「”夜”の事務所にはね、

 正しさより、迷いを持ち帰る人間が必要だった」



 東峰は、思い出す。

 自分が、鑑定結果を言うたびに感じる、あの引っかかり。



「君は」


 所長は、東峰を見る。


「いつも、一拍遅れる」


 責める口調ではない。

 暖かな、柔らかな声色。



「すぐに答えを出さない。

 その代わり、置いていかれた気持ちを拾う」


 ―― そう、なのだろうか。


 自分のことを、ほんの少しだけ振り返り、

 東峰は、言葉を失う。



 所長は目元を緩めながら、東峰を見つめた。

 

 所長の視線に、

 東峰は、ほんの少しだけ、眉尻をさげた。

 

「君のそれは、鑑定士としては――

 致命的かもしれない」



 ほんの一拍。


「でも、仲間としては、必要だった」


 アキが、そこで初めて口を開いた。

 

「……だから、選んだ」


 短い言葉。

 

 小さい。

 けれど、

 確かに、アキの声だった。

 


 所長は、頷く。


「そうだよ」


 アキの言葉に、所長はほんの少し、

 嬉しそうな笑みを浮かべる。



「東峰は」


 アキは、窓の外を見たまま続ける。


「鑑定を、終わらせない」


 東峰の胸が、熱くなる。

 

 アキの視線は、

 東峰を見ない。

 

 それでも、

 アキの尻尾は、ゆるりと揺れているのが、

 分かる。

 


「俺……

 まだ、迷います」


 東峰が、掠れそうになる声で、

 絞り出すように言う。


「それでいい」


 所長は、穏やかに言った。


「夜はね、

 迷う人間がいないと、深くなりすぎる」


 沈黙が落ちる。

 

 ワタリガラスもまた、穏やかな視線を東峰に向けていた。

 


 それは、安心できる沈黙だった。

 

 東峰は、胸の痛みが、ほどけていくのを感じた。

 

 

 ぱたん、と名簿が閉じられる。


「だから、東峰くん」


 所長は静かに告げる。


「私は君を、

 鑑定士としてではなく、夜の番人として選んだ」

  

  


 東峰は、

 その言葉が、

 とても深く、重たい気がした。



 東峰は、思わず、深く頭を下げた。

 

 

 その視界の端で、

 アキの尾が揺れる。

 

 

 

 ぴたん、と

 小さく、床を叩いた。

 

 

 「東峰」

 

 その声に、顔をあげる。

 


「――さあ、鑑定の時間です」



 アキは、いつもの言葉を置く。

 

 

 

 それは、

 誰か一人に向けられた言葉ではなかった。



 ――ここは、

 迷っていても、いていい場所なのだと。



 そう告げている。

 

 そんな気がした。

 

 

 

 

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