かりそめの楽園
深い眠りの世界をさまよう坊やに一筋の光が注がれました。坊やの横を歩く婦人の姿は見えません。母親を見失って迷子になった坊やは、それでも寂しさの涙を落とすことはありませんでした。それというのも、坊やの目の前には、春の訪れを告げる、新緑に満ちた草原が広がっていて、同い年くらいの女の子が身を屈めて小鳥とお話をしていたのです。女の子の明るく澄んだ声を耳にして、坊やは何か面白い遊びをしているに違いないと思い、胸が躍りました。気付かれないように、そっと近づいて、女の子のすぐ横に腰かけました。
「こんにちは」
女の子は、坊やの微かな息遣いに気付いていました。それが自分と同じくらい綺麗であり、虫や鳥の音色と上手く調和すると感じたので、楽園への来訪を快く向かい入れたのです。坊やは、女の子に声をかけられて、少しばかり胸が熱くなりました。婦人の溺愛を一心に受けていたため、他の女性と関わりを持ったことがなく、何んと答えればよいのか見当がつきませんでした。女の子は、不思議そうに坊やを見つめています。泉のように透き通った眼差し、糸のように繊細なブロンドの髪、冬の寒さを思い起こさせる白い肌、それでいてどこか暖かい笑顔。坊やは、婦人が時折お世話している人形を思い出しました。憧れと夢に満ち溢れた理想の美しさを、自然と感じ取ることが出来ました。それは、決して表面的な美しさだけではなく、人間世界の何にも染まらない、極めて透明な心の泉を持ち合わせているということであり、楽園の主人として完璧でした。
坊やは、女の子の顔からなるべく視線をそらそうとしました。川のように流れていく時間を見つめようと心掛けました。女の子は、弟を溺愛する姉のように笑顔をちらつかせました。
「この世界は美しいと思う?」
女の子は、ぶっきらぼうに問いかけました。突然の問いかけにまごつきながらも、
「お母さんが好きな絵本の世界によく似ている」
と坊やは答えました。
「その絵本は、桃源郷に一人取り残された村娘のおはなしね」
「そう、だったかもしれない……」
正午を告げる鐘のしらべが雲の流れを越えていきました。食事を求めにやって来た鳥たちが、女の子の周りに集まってきました。女の子はポケットにしまい込んだパンを取り出して、細かな欠片にちぎりました。しびれを切らした数羽が、女の子の指をくちばしでつつきながら、まだ大きなピースを勢いよく掴み、空へ帰っていきました。
「だいじょうぶ?」
坊やは、くちばしに軽くえぐられた指が朱色に染まっていくのをはっきりと見ていました。女の子は、
「大丈夫だから」
と言って、残りのピースを再び細かく分け始めました。言葉とは裏腹に、その晴れ渡った瞳の奥で、数滴の涙が光っていました。
「大丈夫、だから……。気にしないで」
鳥たちは、腹ごしらえを済ませると、一目散に空へ向けて羽ばたきました。群れの大方が飛び立っていく中、未だに餌を得ていない数羽が女の子の前に現れました。女の子は、
「ごめんなさい。今日はもう終わりなの」
と言って、悲しげに手を振りました。彼らは、見るからに弱弱しく、争いを好みませんでした。白く輝いた翼を落ち着かせ、羅針盤を失った航海船のように、拭きよどむ山風に流されていきました。
「弱っているみたいだよ。助けてあげないと」
坊やは女の子に迫りましたが、女の子は、ただ、首を横に振るばかりでした。次第に、あれほど美しい女の子の瞳が曇り始めたのを、坊やは見逃しませんでした。世界の理を何一つ知らない坊やは、鳥のつぶらな瞳が次第に色あせていく様をじっと見ていました。涙が幾分流れたかもわかりません。
「あれは死んだのよ」
女の子は、微かに呟きました。




