カメラアイを持つ少年巧ー1
巧は物心ついた時からお絵描きが大好きだった。周りには書きたいものが溢れていた。
初めて両親に連れられて乗った新幹線。ホームに滑り込んでくる滑らかな車体、秩序正しく並ぶ座席、窓の外を飛び去る景色。近いものは速く、遠い山はゆっくり。幼い巧の胸は、言いようのない興奮で満たされた。
けれど、その感動をクレヨンで表現しようとした彼は、絶望に直面する。画用紙の上に現れたのは、不格好な大きな円と、それを無残に切り裂く一本の線だけだった。
「描きたいもの」と「描けるもの」の圧倒的な乖離。
幼稚園で泣きじゃくる巧の元へ、山中先生が静かに歩み寄った。
「どうしたの巧君?こう描くのよ」
先生の赤いクレヨンが、三つのギザギザと丸い半円を描き出す。緑の茎、そして対の葉。それは記号化された「チューリップ」だった。先生の真似をすれば、それらしい花が描けた。並んだ2つのチューリップ、空には赤いお日様。人の顔は、肌色の円に上向きの半円を二つ描けば「笑顔」になる。
山中先生のお陰で巧は、世界を記号として処理する術を覚えた。四角い箱に窓を並べ、菱形のパンタグラフを乗せれば「電車」になる。
山中先生は巧のお絵描きを、いつもすごく褒めてくれたけれど、心のどこかでは知っていた。これはあの日見た、あの新幹線ではない。
幼稚園の年長になり、祖父を亡くした巧は、強烈な「恐怖」と「畏怖」に出会う。
初めて訪れたお寺。壁に掲げられた地獄絵図は、幼い心には刺激が強すぎた。血の池、針の山、嘘をつけば舌を抜く鬼。世界の残酷さがそこには描かれていた。
しかし、その地獄絵の傍らに、彼は吸い込まれるような光を見つける。
それは「胎蔵曼荼羅」だった。
中心に座す巨大な仏と、八方を取り囲む無数の尊像。一人ひとり異なる表情、異なる印相。その多くは笑わず、かといって怒るでもなく、ただ圧倒的な静寂の中で配置されていた。
家に帰っても、その宇宙的な幾何学模様が網膜に焼き付いて離れない。巧は狂ったようにクレヨンを動かした。
しかし、チューリップのように簡単にはいかなかった。
どれほど手を動かしても、頭の中にある完璧な整列、仏たちの無表情な神々しさに辿り着けない。あまりに膨大で、あまりに緻密な「完成」への距離。
幼稚園でそれ(曼荼羅)を描き始めると、山中先生は困ったような顔をした。
「巧君、何を書いているの?」
答えられなかった。自分でも何て言うか知らないし、心の中にあるイメージからもかけ離れている。お絵描き帳には茶色や灰色のだるまさんのよう物体がたくさん並んでいた。
以来、巧は曼荼羅を描くのは自宅だけでこっそりするようになった。幼稚園では、お花や人、動物、乗り物などを綺麗な色で書く。それなりに「先生受け」する絵を上手に描けるようになった。
巧は後に、自分が「カメラアイ」と呼ばれる特殊な能力を持っていることを知った。
漢字は一度眺めるだけで、その形状を完璧にコピーできた。当用漢字を覚えることなど雑作もないことだった。意味や読み、書き順はともかく。
クラスメイトが何度もノートを埋めているのに、なぜ彼らには覚えられないのか、巧には不思議でならなかった。
文字、記号、外国の古い紋章。整然とした秩序を持つ図形を彼は愛した。
だが、たった一つ、どうしても受け入れられない意匠があった。
「QRコード」
あの無機質な黒いノイズの集積。
それを見つめていると、内臓を掻き回されるような悪寒が襲う。
あの不自然なドットの羅列は、世界を侵食する毒のように感じられた。
QRコードが目に入ると目を逸らす癖が身に付いた。QRコードは実にあちこちにあって油断すると視界に飛び込んでくる。
中学に上がっても、巧の「曼荼羅」を描く習慣は、静かな衝動として続いていた。
それが他人から見れば「キモイ趣味」に分類される自覚はあったから、学校ではどこまでも平凡なオタクを装った。運動は苦手でクラスカーストの底辺、成績は上の下。アニメやゲームを愛好し、趣味の合う友人と笑い合う日々。
だが、ひとたび自室に帰れば、スケッチブックに曼荼羅を刻む「異端の絵師」へと変貌した。その頃には画力は向上して円や直線をコンパスや定規を使わなくても機械のような正確さで描けるようになっていた。
高校に入り、彼の興味は中世の魔法円や古代文字へと広がっていった。知識は増えてその意味するところを勉強するようにもなった。たが正確にコピーするだけでは満足できなかった。
使うのは2Bの鉛筆一本。数週間かけて、自分だけの宇宙を紙の上に構築する。描いている間、無心だった。時間は溶け、意識は図形の中へと沈み込んでいく。
高校2年になってクラス替えがあり、巧は超イケメンの翔と大秀才の健斗と友達になった。今まで付き合ったことのないハイカーストの2人。近寄り難い雰囲気を持つ2人だったが、一度打ち解けると、とてもいいやつだった。
翔は世捨て人みたいな雰囲気がある。寄って来る女子に愛想よく接したらすぐハーレムが出来そうなのに、いつも素っ気ない。勘が鋭く、時々びっくりするようなことを言う。
健斗は勉強のことしかないと思われているけど、彼なりにいろいろ悩みを抱えているらしい。いくら頭が良くても、それだけでハッピーになるのは難しいのかも知れない。何でも深く探求し過ぎだと巧は思う。
それから、翔の隣の席の伊奈恵さんと少し仲良くなった。巧は今までリアルな女子とは無縁だったが、翔、健斗、そして伊奈さんの4人で時々お茶するようになった。単なるグループ交際ではあったが、生活が少し色彩を帯びた気がする。
伊奈さんも普段はちょっと近寄り難い感じなのだが、巧達には気さくに話しかけてくれる。女嫌いの翔も伊奈さんには打ち解けているようだった。彼女はスポーツ万能でいろいろな運動部から誘いがあったが、個人的に空手を習っていて、他には興味がないらしい。授業が終わるとさっさと帰ってしまう。
些細な日常の変化だったが、巧の隠れた趣味が覚醒を迎えつつあった。




