第8話 クロード専用特製サンドイッチ
そんな距離感が続いていた、ある日のこと。
エレノアは、普通の定刻に出勤した。
朝、少しゆっくりしすぎたわけではない。
この日は珍しく、朝一番で片付ける書類がなかったためだ。
執務室の扉を開け、自分の席に座る。
すると、目の前に大きな影が立ちはだかった。
クロードだ。
「ちょっとこっちへ来い」
(えーーー、何かミスした……?
こわい、こわい)
冷や汗をかきながら、エレノアはおそるおそる給湯室までついていく。
「なぜ、今日は早く来なかった?」
クロードの声は、いつになく早口だった。
「何かあったのか? 気分が悪いのか?
俺との時間が不快だったのか?
昨日のシャツが気に入らなかったか?
それとも、分け目を少しセンターに寄せたからか?」
矢継ぎ早の質問に、エレノアは目を丸くした。
「室長……本日は定刻で間に合う仕事量でしたので……」
「……そうなのか?」
「はい……。あっ!」
そこで、エレノアは昨日のクロードを思い出した。
「室長は、いつもかっこいいです。
えっと……昨日の分け目、気づいてました。
普段と違う感じで、素敵でした」
言い終えてから、エレノアは自分の言葉に少し驚いた。
(あら。思ったより素直に言ってしまったわ)
一方、クロードは――
「……」
固まっていた。
腕を組んだまま、視線を斜め上へ泳がせている。
「そう、か」
ようやく絞り出した声は、いつもより一段低く、微かに震えていた。
「べつに、狙ったわけではない」
「え?」
「昨日、寝坊して、いつもと同じ手順が踏めなかっただけだ」
「はあ……」
「決して、意図的に、その……印象を変えようと――」
言葉が、どんどん早口になっていく。
「室長? 大丈夫ですか?」
「大丈夫だ! 問題ない!」
やけに大きな声で言い切ると、クロードはくるりと踵を返した。
「仕事に戻れ」
背中を向けたまま、早口でそう告げる。
耳が、心なしか赤いように見えた。
――――――
一日の終わりの鐘が鳴る。
それを少し過ぎたぐらいに、
エレノアは今日の仕事を終えた。
書類をまとめ、クロードの机へ向かう。
「室長、本日分の書類でございます」
差し出された書類の束を、クロードは無言で受け取った。
その一番上に、小さなメモが挟んである。
『明日はいつも通り早めに参ります。
エレノア・フォン・ベルク』
クロードは、そのメモにしばらく目を落としていた。
「……ああ」
短い返事。
けれど、その声は少しだけ穏やかだった。
「お先に失礼いたします」
一礼して、エレノアは帰る準備を整え、部屋を出た。
扉が閉まった後――
クロードは、メモをそっと引き出しにしまった。
書類の束とは、別の場所に。
その日の日記は、一言だけ書いた。
室長が忙殺されそう……
やっぱり早く行って出来ることを手伝おう。
右下のGは―――――120,000G
翌朝。
エレノアが扉を開けると、すでにクロードの姿があった。
「おはようございます、室長」
「……ああ」
いつもより、少しだけ目が合う時間が長い気がした。
(気のせいよね)
サンドイッチとコーヒーを机に置きながら、
エレノアはそっと視線を逸らす。
「今日も二個でよろしいですか?」
「……三個、頼む」
「かしこまりました」
いつもより一個多い注文に、エレノアは小さく
首を傾げながらも、素直に応じた。
「室長、今日のサンドイッチは、室長だけのスペシャルメニューにしたんです。
少しお疲れの様子だったので」
(室長の仕事を全部助けることは、まだ無理だけど、
栄養と休息をとってもらうお手伝いなら
今の私でもできるわ)
そっとクロードの席にサンドイッチとコーヒー
を置く。
「俺のために?」
「はい。栄養面を考えて、
タンドリーチキンとアボカドのサンドイッチ、
野菜たっぷりのサンドイッチ、
それから室長がお好きなタマゴサンド
を選んでみました」
エレノアがにっこりと微笑む。
「室長がどのぐらい召し上がるか、
分からなかったので、
少し多く用意してしまいました。
余った分は皆さまのところに」
「いや、全部俺が食う」
「えっ?」
「俺専用なら、俺が食うのが道理だ。
全部もってこい」
「あっ、はい。でも、室長、お昼は召し上がりませんよね?」
「今日から食うと決めた」
「ふふふ。はい! 嬉しいです!」
エレノアは、本当に嬉しそうに笑った。
「ゴホンッ」
クロードが咳払いをする。
「エレノア、その顔は、その……朝だけにしておけ」
「……?」
「可愛い過ぎる……誰にも見せるな」
静かな部屋に、柔らかな日差しが差し込む。
エレノアは足の先から頭の上まで真っ赤に
なっていくのがわかった……。
そして、生暖かい空気の中、
二人が書類をめくる音だけが響いていた。
ふと、クロードが席を立ち、
エレノアの机の近くを通りかかった。
「これ、そこの棚に届いていた」
差し出された資料を受け取ろうとした瞬間。
指先が、少しだけ触れた。
「……っ」
エレノアの肩が、びくりと跳ねる。
「すまない」
「い、いえ」
心臓が、やけにうるさい。
(な、なに、今の……)
慌てて資料に視線を落とし、平静を装う。
けれど、指先の感触だけが、いつまでも消えなかった。
その夜。
日記帳を開いたエレノアは、
自分だけが知っているクロードの顔を、
いくつも思い浮かべていた。
そして、何も書けず日記を閉じた。




