第4話 二度と戻るか!こんな家!
制服を受け取ったあの日から、
エレノアの日々は静かに動き出した。
銀行に眠っていた口座の半分近く使って
王都の外れに小さな屋敷を買った。
男爵家には、決して知られない程度に
離れた所で。
かつて自分を守ろうとして解雇された使用人たちを、一人ずつ探し出し、屋敷へ呼び戻した。
「エレノアお嬢様……!」
「もう、お嬢様なんて呼ばなくていいのよ」
再会のたびに、涙する者もいた。
エレノアは、そのたびに小さく笑った。
高等部に通いながら、事業も始めた。
何をするにも、誰の許可もいらなかった。
それは、生まれて初めて手にした、
自分だけの居場所だった。
――
そして、高等部を卒業する春。
エレノアは、宮中の文官として、自らの意志で
職を得た。
男爵家には、事後報告のつもりだった。
けれど、呼び出された応接間で、待っていたのは
怒声だった。
「勝手なことをするな!」
父の声が、部屋に響く。
「お前は、伯爵家の第二夫人として嫁ぐ予定
だったのだぞ。結納金だけでも、いくら貰ったと思っている!」
エレノアは、静かに父を見た。
不思議なほど、心は凪いでいた。
「……存じませんでした。わたくしを、
そのように使うおつもりだったとは」
「結納金として頂いたお金は?」
エレノアの問いに、父は苛立たしげに舌打ちした。
「そんな金、とうに使った!
高等部卒業まで、待ってやったんだぞ!」
まるで、それが恩着せがましい施しであるかの
ような言い方だった。
「エレノア。お前も、少しは家の役に立て」
――エレノア。
(あぁ……どれくらいぶりに、父にこの名前を
呼ばれただろう)
役に立つ時だけ、思い出される名前。
それが、今の自分の価値なのだと、
改めて思い知らされる。
(こんなものか)
不思議なほど、心は静かだった。
怒りよりも先に、確認のような感覚だけが
あった。
エレノアは、静かに頭を下げた。
「家を出ます。
どうぞ、クラリッサを嫁がせてくださいませ」
「あなた、クラリッサはあんな評判の悪いところに
嫁がせるのは嫌よ!」
継母が、初めて感情をあらわにした。
それは、エレノアへの罵倒とは違う響きだった。
「あの子には、ちゃんと幸せになってほしいの。
それが、母親としての、わたくしの願いなのよ」
――娘だから。
自分の、本当の娘だから。
その言葉は、エレノアの心の、どこにも
刺さらなかった。
ただ、静かに通り過ぎていくだけだった。
(そう。それが、当然よね)
継母にとって、クラリッサは守るべき娘。
エレノアは、ただの道具。
それだけのことだった。
「勝手にしてください……」
小さく呟いて、エレノアは踵を返した。
「荷物をまとめます。失礼いたします」
振り返ることなく、部屋を出た。
父親がまだ何か怒鳴っているが、全て無視して
部屋に戻る。
自室の前に、クラリッサが立っていた。
腕を組み、口の端に笑みを浮かべている。
「あら、お義姉様」
その声には、隠す気もない愉悦が滲んでいた。
「出ていって、どうするの?」
「……」
「あんたにお金なんて、ないじゃない。
すぐにここへ 、戻ってくることになるわ」
くすくすと、笑い声が続く。
「お義姉様も、どうせそうなると分かっている
のでしょう?それなのにみっともなく
足掻いて不様ですわ」
エレノアは、何も答えなかった。
答える価値もない、と思った。
「早く嫁にでも出ればいいのに。
ね?お義姉様」
クラリッサは、扉の前から動こうとしない。
まるで、この時間を楽しんでいるかのようだった。
エレノアは、静かにクラリッサの横をすり抜け、
部屋の扉を開けた。
「……どいて頂ける?クラリッサ」
それだけ言って、部屋の中へ入る。
背後で、クラリッサが小さく舌打ちする音が
聞こえた気がした。
扉を閉め、エレノアは一つ、息を吐いた。
(お金がない、か)
くすり、と笑いが漏れる。
クラリッサは、何も知らない。
何一つ。
――エレノアは、鞄を手に取った。
荷造りは、もう半分終わっている。
部屋の中を、エレノアはゆっくりと見回した。
クローゼットの中は、クラリッサのお下がりばかり。
サイズの合わないドレス、擦り切れたリボン、
流行遅れの靴。
どれも、自分で選んだものは一つもなかった。
(――ダサっ!趣味悪!いらないわ)
持っていくものなど、何もない。
代わりに、机の引き出しを開ける。
一番奥にしまってあった、小さな木箱を取り出した。
蓋を開けると、中には――
色褪せたリボン。
小さな肖像画。
そして、あの日記帳。
すべて、母の形見だった。
エレノアは、それらを一つずつ、丁寧に鞄へ
しまっていく。
木箱の底に、最後まで残っていた小さなブローチを、
指先でそっと撫でた。
母が、いつも身につけていたものだった。
「……行きましょう、お母様」
小さく呟いて、鞄を閉じる。
クローゼットの扉は、開けたままにしておいた。
クラリッサのお下がりが、色褪せた光の中で、
静かに揺れている。
振り返ることなく、エレノアは部屋を出た。
(二度と戻るか!こんな家!)




