第2話 不幸と幸福は手を繋いでいる、かも?
十七歳になった春。
高等部への進学準備のため、私は一人で街へ出ていた。
制服を買うお金など、もちろん渡されていない。
それどころか、これまで密かに使っていた
母の残してくれた遺産も、
とうとう底をついてしまった。
(困ったわ……)
進学する以上、制服は必要だ。
でも、今の私には買うお金がない。
そんな時だった。
母の残した日記帳を開いた際、
裏表紙に一枚のカードが挟まっていることに
気がついた。
古びた、見覚えのない銀行のカード。
裏には銀行名が刻まれている。
聞いたこともない、小さな銀行だった。
けれど。
(もしかしたら……制服を買えるくらいのお金が
残っているかもしれない)
いや。
(半分くらいでもあれば助かるわ)
そんな淡い期待を抱いて、
わたしはその銀行を探して街へ出てきた。
そして――
(この辺りだと……ここね)
目の前に、小さな銀行があった。
「失礼いたします」
扉を開けて中へ入る。
小さなカウンターと、数人の従業員。
大きな銀行とは違い、どこかこぢんまりとしている。
それでも職員たちは忙しそうに動き回っていた。
(……忙しそう)
少し待っていると、一人の女性がこちらに気づいて
声をかけてくれた。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
案内されたカウンターの席に腰を下ろし、
わたしは一枚のカードを机の上へ置いた。
「こちらのカードの残高を確認したいのですが……」
「はい。かしこまりました」
女性がカードを受け取る。
魔力を流すと、カードの表面に淡い光が走った。
「本人確認が必要となりますので、少々お待ちくださいませ」
「はい」
しばらくして、女性が顔を上げる。
「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「エレノア・フォン・ベルクですわ」
「では、ベルクお嬢様。こちらの機械に
魔力を流していただけますか?」
「わかりました」
言われた通り、機械に手を置く。
魔力を流すと、淡い光が指先から機械へと
吸い込まれていった。
「はい。ありがとうございます。
ご本人確認が終了いたしました」
女性はにっこりと微笑む。
「こちらが現在の残高でございます。
いくらかお引き出しになりますか?」
「はい。制服を買いたいので――」
そこまで言って。
私は、小さなモニターへ視線を落とした。
「…………」
数字が並んでいる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
……いや。
そんな数ではない。
「えっ……?」
桁を数える。
もう一度、数える。
そして。
「えっ?! えーーーっ!?」
思わず椅子から立ち上がった。
モニターいっぱいに並んでいるのは――
私が今まで見たこともないほどの、たくさんのゼロだった。
(待って!待って!待って!!)
「ま、ままっ、また来ます!」
カードを震える手で受け取り
銀行を飛び出して、何も考えず走る。
(どうしよう!なんなの、これ?!
ドキドキが止まらない……!)
「エレノアちゃ……ん?って、もう行っちまった……」
いつもよくしてくれる、パン屋のおばさんだった。
「おや、どうした?慌てて……行っちまった」
花屋のおじさんの声も聞こえない。
街には、優しくしてくれる人たちがたくさんいる。
けれど、挨拶をする余裕もなく、
エレノアは猛スピードで駆けていった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
王立公園まで来たところで、ヒールが根を上げた。
「……落ち着こう」
石段に腰を下ろし、大きく息を吐く。
(びっくりした。お母様が残してくれた、
隠し財産だったのかしら……?
そんなにお金、あったの……?
はぁ……
ひとまず、高等部にはきちんとした姿で登校できそうね)
見上げると、春の柔らかい空気が頬を撫でていく。
「気持ちいい……」
(季節を感じるなんて何年ぶりだろう……
当面の生活できるお金と、制服代。
あと、靴も新しいのが要るわね)
エレノアは履いていた靴を脱ぎ、片手にぶら下げた。
裸足の足の裏に、公園の柔らかい土の感触が伝わる。
誰にも見られていない。
誰にも咎められない。
それだけで、少しだけ、笑えた。
裸足のまま少し歩いて、エレノアは気づいた。
このまま公園にいても、何も始まらない。
けれど、裸足で街を歩くわけにもいかない。
壊れたヒールを見つめ、少し考えてから――
もう片方のヒールも、迷わずぽきりと折った。
「これでよし!」
高さの揃った、ぺたんこの靴。
見た目は少し不格好だけれど、歩くには十分だった。
靴を履き直し、今度はゆっくりと、銀行への道
を戻った。
「あら、エレノアちゃん!」
パン屋の前を通りかかると、おばさんが顔を
出した。
「さっきは、随分急いでたわねぇ」
「ふふ、少し……びっくりすることがあって」
「なら良かった。ほら、これ持っていきなさいな」
焼きたてのパンを、紙に包んで手渡してくれる。
まだほんのり温かい。
「いつもすみません、おばさん」
「いいのいいの。あんた、ちゃんと食べてる?」
その一言に、エレノアは一瞬言葉を詰まらせた。
「……最近は、少しずつ」
「そう。ならいいけど」
おばさんは、それ以上は聞かなかった。
ただ、優しく笑うだけだった。
しばらく歩くと、花屋の店先で、おじさんが
水やりをしていた。
「おお、エレノアちゃん。さっきはどうしたんだい、
真っ青な顔して」
「ふふ、心配かけてすみません」
「困ったこと、なかったかい? いつでも言う
んだよ」
エレノアは、少しだけ迷って——それから、笑った。
「おじさん、大丈夫。いつもありがとう」
その一言だけで、十分だった。
本当のことは、まだ誰にも言えない。
それでも、気にかけてくれる人がいる。
それだけで、胸の奥が少し温かくなった。
◆
銀行に戻ると、先ほどの窓口の女性が、
少し驚いた顔をした。
「あら、お戻りに」
「先ほどは、失礼いたしました。
……当面の生活費を、引き出していただけますか」
「かしこまりました」
手続きを終え、エレノアは久しぶりに、
財布の中身を気にせず街を歩いた。
仕立て屋で、高等部の制服を仕立ててもらう。
靴屋で、新しい靴を選ぶ。
どちらも、値段を見て諦める必要がなかった。
それだけのことが、ひどく不思議だった。
すべての用事を終える頃には、
日はすっかり傾いていた。
両手に紙袋を抱え、エレノアは男爵家への道を
歩いた。
門をくぐる時、いつものように、誰も出迎えなどしない。
けれど今日だけは、それでも構わなかった。




