023_港の夜鳴り
夜の港は、昼と別の顔をしている。
昼は人の声が勝つ。
夜は波の音が勝つ。
古い船着き場へ向かう道は、エドが人を止めてくれていた。ニナも一緒に立っている。
トマが何か言いたそうにしていたが、ニナにがっちり止められていた。
「レイ兄ちゃん、見ちゃ駄目?」
「駄目だ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとだけ落ちる奴もいる」
「落ちないよ」
「お前は船を見ると前に出る。今日は駄目だ」
トマは頬を膨らませた。
「終わったら話して」
「何もなかったらな」
「何かあるの?」
「何もないようにしに行く」
それだけ言って、俺は古い船着き場へ降りた。
同行するのは、ラウルとサイル。それから猫。
「お前、本当に来るのか」
「にゃ」
「危なくなったら逃げろよ」
「にゃ」
「返事だけはいいな」
サイルは小箱を両手で抱えていた。
顔色は悪いが、逃げてはいない。その点は少しだけ見直した。
潮は上がってきていた。
石段の下から、水が少しずつ迫っている。潮止めの石は、夜の湿気を吸って黒く見えた。
ラウルが布を広げる準備をする。
「箱を開けます」
「ゆっくりな」
サイルが小箱の金具を外した。
かちり。
蓋が開く。
ちりん。
中から鈴の音がした。
それに答えるように、港の奥から別の音が響いた。
ちりん。
「祭りの鈴か?」
俺が聞くと、ラウルが首を振った。
「あちらは回収しています。これは、おそらく石の反応です」
「石が鈴の真似をするな」
潮止めの石の波模様が、青白く光った。
水面がざわつく。
古い船着き場に繋がれていた小舟の縄が、ぎしぎしと鳴り始めた。
「レイさん」
「分かってる」
守りの力が、港へ戻そうとしている。布も、箱も、石も、昔の役目を思い出している。
ただ、今ここには戻すべき船などない。なのに力だけが動けば、近くの物を引っ張る。
小舟。
木片。
水路の水。
たぶん、人間も。
「サイル、布を出せ」
「はい」
サイルが箱から布を取り出す。その瞬間、風もないのに布が大きく広がった。
四隅の結び目がほどけかける。中央に滲んだ四つの名前が、青く浮かび上がった。
「ラウル、名前読めるか」
「古い港字です。すべて人名だと思います」
「帰ってこなかった奴らか?」
「分かりません」
「まあ、分からんよな」
水面がまた揺れた。
小舟の縄が一本、ばつんと切れた。
「まずい」
小舟が沖へ流れかける。
ラウルが動こうとしたが、俺は止めた。
「船は後だ。布が先だ」
「しかし」
「ここで布を逃がしたら、船どころじゃない」
俺は潮止めの石に近づいた。
波模様の欠けた部分。そこに布の四隅を結び直す。ラウルが手伝い、サイルが箱を押さえる。
布は暴れるように揺れた。
軽い布のはずなのに、まるで濡れた帆みたいに重い。
「おいおい、重すぎるだろ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないが、ここでやめるともっと大丈夫じゃない」
布の一つ目の結び目を石にかける。
ちりん。
二つ目。
ちりん。
三つ目。
水が石段を叩く。
小舟がさらに離れる。
猫が低く鳴いた。
四つ目の結び目をかけようとした時、布の中央から冷たい感触が伸びた。
指先ではない。
胸の奥を掴まれるような感覚だ。
帰れ。
そんな声がした気がした。
誰に向けた声なのか分からない。
船か。
人か。
布そのものか。
「悪いがな」
俺は小さく言った。
「帰る場所を間違えるな」
布と石と箱。それぞれの継ぎ目を探る。
ばらばらになった役目を、今の場所へ馴染ませる。
「帰りたいなら、ここに帰れ」
四つ目の結び目を締めた。
「馴染め」
潮止めの石が、青く光った。
小箱の鈴が、一度だけ大きく鳴った。
ちりりん。
港全体に響くような音だった。
次の瞬間、波が静まった。
小舟の動きが止まる。
切れた縄は戻らないが、船は岸壁にぶつかる手前で揺れていた。
ラウルが息を吐いた。
「止まりました」
「見れば分かる」
「手が震えていますよ」
「寒いんだ」
「今夜はそこまで寒くありません」
「うるさい」
サイルはその場に膝をついた。
「すみません。本当に、すみません」
「謝るのは後でいい。箱を閉めろ」
「はい」
箱はもう鳴らなかった。
猫が石のそばへ行き、布を少しだけ嗅いだ。
「どうだ」
「にゃ」
「合格か」
「にゃ」
「猫の審査は厳しそうだな」
遠くで、トマの声が聞こえた。
「終わったのー?」
俺は港の上へ向かって叫んだ。
「終わったぞ。たぶんな」
「たぶん?」
「大人は何でもたぶんで生きてるんだ」
ニナの笑い声が聞こえた。
夜の港は、また波の音だけになった。
鈴はもう鳴らない。
布も暴れない。
石は黙っている。
守るものは、黙って守るくらいがちょうどいい。




