「早瀬の限界」
事件から約二年後・秋 深夜
辞表を書いたのは、深夜一時だった。
書いてから、読み返した。それから引き出しにしまった。提出しなかった。
これで三度目だった。
最初に書いたのは、柏木が死んだ翌週だった。間に合わなかった自分への怒りと、組織の縦割りへの怒りが重なった夜だった。書いて、翌朝に読み返して、破った。
二度目は、拓海の裁判が始まった頃だった。傍聴席で拓海の言葉を聞きながら、自分がここで何をしているのか分からなくなった夜だった。書いて、また引き出しにしまった。
三度目が今夜だった。
今夜、新しい案件のファイルを開いた。また動画だった。また若い女性の顔がAIで合成されていた。また元交際相手の男が関わっていた。手口が前と似ていた。似ているのに、法律の整備が追いついていなかった。証拠を固めるのに時間がかかった。その間にも動画は広まり続けた。
「また同じことが起きている」と早瀬は思った。
しかし同じではなかった。技術が進んでいた。精度が上がっていた。一年前より検出が難しくなっていた。桑田がいれば、と思った。桑田は防ぐ側に行った。追う側には、新しい担当者がいた。優秀だったが、経験がまだ浅かった。
辞表を書いたのは、そういう夜だった。
引き出しを開けた。
三枚の辞表が入っていた。三枚とも、自分の字だった。三枚とも、提出されなかった。
なぜ提出しないのか。
答えは分かっていた。
辞めた後のことを、考えられなかった。刑事を辞めた早瀬凌に、何ができるのか。別の仕事に就けるのか。しかしそれだけではなかった。
さやかが「裁判になりますか」と聞いた時の声を、覚えていた。「なります。やります」と答えた自分の声を、覚えていた。アカリが「行ってきます」とムギに言って面会室に来た日を、覚えていた。加奈子が証言台で「真司は悪い人間ではありませんでした」と声を震わせずに言った日を、覚えていた。
辞めたら、次の誰かのそばにいられなくなる。
それだけのことだった。
早瀬は引き出しを閉めた。
辞表は三枚、引き出しの中にあった。
四枚目を書く日が来るかもしれなかった。しかしそれも、また引き出しにしまうかもしれなかった。
窓の外の高速道路を、深夜の車が流れていた。
止まらなかった。
早瀬も、まだ止まらなかった。




