「それぞれの今日」
事件から約二年後・秋 ある一日
早瀬凌は、朝七時に署に着いた。
新しい担当者がデスクに座っていた。二十代の女性だった。三週間前から来ていた。まだ慣れない部分があったが、覚えが早かった。桑田ほど技術は詳しくないが、粘り強かった。
「おはようございます」と新しい担当者が言った。
「おはようございます」と早瀬は答えた。
今日も書類があった。今日も案件があった。止まらなかった。
——水野アカリは、朝九時にNPOのドアを開けた。
「おはようございます」と田所が言った。
「おはようございます」とアカリは答えた。
今日は午後に面談が二件あった。一件は新規の相談者だった。どんな人が来るか、まだ分からなかった。しかし椅子があった。話を聞く場所があった。
ムギは今朝、玄関までついてきた。「行ってきます」と言うと、鳴かずに見送った。
——柏木加奈子は、彩を学校に送り出した後、弁護士事務所へ向かった。
控訴審の準備が続いていた。終わりはまだ先だった。しかし歩いていた。
途中、公園の前を通った。真司と彩と三人で来た公園だった。今は加奈子一人で通り過ぎた。しかし通り過ぎた。立ち止まらなかった。
——柏木彩は、学校で図工の授業があった。
版画だった。今日、刷り上がる日だった。先生が「いい作品だね」と言った。彩は「パパに見せたい」と思った。思ってから、少しだけ胸が痛くなった。しかしすぐに版画を見た。うまくできていた。
——久我山拓海は、刑務所の作業場で木工をしていた。
手を動かしていると、余計なことを考えなかった。しかしふとした時に考えた。出た後のことを。水野さんと話した日のことを。父の手紙のことを。
答えはまだ出ていなかった。しかし考えていた。
——久我山誠一郎は、アパートの近くの図書館にいた。
本を読んでいた。蟻の本ではなかった。しかし図書館にいると、あの日のことを思い出した。拓海と並んでページを捲った日のことを。
返事はまだ来ていなかった。来ないかもしれなかった。しかし待っていた。
——中村さやかは、今日から週五日の勤務に戻った。
午前中、会議があった。発言した。声が震えなかった。
昼休み、窓の外を見た。秋の空だった。高く、青かった。
——村上怜司は、今日もカメラの前に座った。
録画はしなかった。しかし昨日より少しだけ、長く座っていた。
いつか録画する日が来るかもしれなかった。来ないかもしれなかった。しかし今日も座った。
——桑田は新しい職場で、AIが生成した動画の検出アルゴリズムを書いていた。
コードが通った時、小さく「よし」と言った。誰も聞いていなかった。しかし言った。
——ある秋の夜、一人の人間がスマートフォンを開いた。
新しい炎上が始まりかけていた。タグがトレンドに入り始めていた。
その人間はスマートフォンを置いた。
今日も置いた。
部屋が静かになった。暗い画面に、自分の顔が映った。
証言者は、あなたです。
その言葉が、また聞こえた気がした。
どこからでもなかった。しかし確かに、聞こえた。
——秋の光が、それぞれの場所に差し込んでいた。
早瀬の署に。アカリのNPOに。加奈子の歩く道に。彩の教室に。拓海の作業場の小窓に。誠一郎の図書館に。さやかのオフィスに。村上の部屋に。桑田の新しいデスクに。
それぞれの今日が、続いていた。
柏木真司だけが、いなかった。
しかし彩が版画を刷り上げた。加奈子が公園を通り過ぎた。それだけのことが、今日も世界にあった。
止まらなかった。




