「桑田の転職」
事件から約二年後・夏 午後5時〜午後9時
「転職します」と桑田が言ったのは、定時を過ぎた頃だった。
早瀬はモニターから顔を上げた。
桑田はデスクの前に立っていた。いつもと同じ顔だった。緊張しているのか、していないのか、よく分からない顔だった。
「どこへ」と早瀬は聞いた。
「サイバーセキュリティの民間企業です」と桑田は答えた。「AI生成コンテンツの検出技術を開発しているところです。来月から」
早瀬は椅子に深く座った。
「引き止めない」と言った。「引き止めても意味がない場合は引き止めない主義だ」
「そうなんですか」と桑田は言った。
「そうだ」と早瀬は答えた。「行くべき場所があるなら、行け」
桑田は少し間を置いた。
「一つだけ聞いていいですか」と言った。
「なんだ」
「早瀬さんは、この仕事を続けていて、意味があると思いますか」
早瀬は答えを考えた。
「意味があるかどうかは分からない」と言った。「しかし必要だとは思っている。高橋のような人間が、また出てくる。拓海のような人間も、また出てくる。技術は進む。手口は変わる。それを追い続ける人間が、いなければならない」
「早瀬さんは追い続けますか」
「追い続ける」と早瀬は言った。迷わなかった。
桑田は頷いた。
「私は追う側ではなく、防ぐ側に行こうと思いました」と言った。「検出技術が上がれば、被害が出る前に止められるかもしれない。それをやりたい」
「正しい判断だ」と早瀬は言った。
「早瀬さんと組んで仕事ができたことは、よかったと思っています」と桑田は言った。照れているのか、真剣なのか、いつも通り分からない声だった。
「こちらもだ」と早瀬は言った。
それだけだった。乾杯もしなかった。握手もしなかった。
桑田がデスクに戻り、また画面を開いた。早瀬も画面に向かった。
二人の最後の夜勤が、静かに続いた。
窓の外で、夏の虫が鳴いていた。
高速道路を車が流れていた。止まらなかった。
早瀬は画面を見ながら、桑田の「防ぐ側に行く」という言葉を頭の中で繰り返した。
追う側と防ぐ側。どちらも必要だった。どちらも、同じ方向を向いていた。
それで十分だった。




