「加奈子と彩の夏」
事件から約一年半後・初夏 午前10時〜午後2時
墓地は静かだった。
平日の午前だった。他に参拝者はほとんどいなかった。木漏れ日が墓石の間を移動していた。初夏の光だった。真司が好きな季節だった。
彩がバケツに水を汲んできた。
「これでいい?」と聞いた。
「いいよ」と加奈子は答えた。
二人で墓石を洗った。彩がスポンジで丁寧に拭いた。加奈子が水をかけた。真司の名前が刻まれた石が、濡れて光った。
花を供えた。
線香に火をつけた。風があった。何度か消えた。彩が手で囲んで、やっと火がついた。「ついた」と言って、嬉しそうだった。
二人で手を合わせた。
加奈子は目を閉じた。
真司に何を言えばいいか、いつも迷った。言いたいことは無数にあった。しかしいざ目を閉じると、言葉が出てこなかった。ただ、ここに来た、ということだけを伝えた。
目を開けると、彩がまだ手を合わせていた。
目を閉じて、口を動かしていた。
何を話しているのか、加奈子には分からなかった。聞かなかった。彩と真司の間の言葉は、彩と真司のものだと思った。
しばらくして彩が目を開けた。
「何話してたの」と加奈子は聞かずにいようと思っていたが、聞いてしまった。
「秘密」と彩は言った。
「そっか」と加奈子は言った。
帰り道、彩が「パパ、聞こえてると思う?」と聞いた。
「思う」と加奈子は答えた。
「どこにいるの?」
「どこかにいる」と加奈子は言った。「どこにでも、いる気がする」
「学校にも?」
「いると思う」
「じゃあ、図工の時間も見てるんだ」と彩が言った。「この前、版画うまくできたんだよね。パパに見せたかったな」
加奈子は彩の手を握った。
「見てたと思う」と言った。
彩は「そっか」と言って、少し歩いてから「じゃあ、次の作品も見ててもらわないと」と言った。
加奈子は笑った。
声に出して笑った。久しぶりだった気がした。声に出して笑うのが、いつぶりかと思った。気づいたら笑っていた。
彩が「なんで笑ってるの」と聞いた。
「嬉しかったから」と加奈子は答えた。
「何が?」
「あなたが、次の作品って言ったから」
彩はよく分からないという顔をした。しかしそのまま加奈子の手を握り返した。
二人で歩いた。
初夏の光の中を、止まらなかった。




