「アカリの一年」
事件から約一年半後・初夏 夜9時〜深夜
ムギが膝の上にいた。
アカリはソファに座り、電気をつけないまま、窓の外を見ていた。初夏の夜だった。開けた窓から風が入っていた。去年の今頃と同じ風だった。しかし去年の今頃、アカリはホテルの部屋で久我山のSNSを確認していた。
一年が経った。
NPOで働き始めて半年が経った。毎週火曜と木曜、相談の電話を受ける。月に一度、面談に来る相談者と話す。まだ慣れない部分もあった。しかし田所が「慣れなくていい」と言っていた。「慣れると、相手の話を流すようになる。慣れないまま、毎回新しく聞く方がいい」という言葉だった。
さやかが今日も来た。
三ヶ月前より表情が明るくなっていた。職場に戻り始めたと言っていた。週に三日から始めて、今は四日になっていた。「来月から五日にしようと思っています」と言った。アカリは「急がなくていい」と答えた。さやかは「急いでいるわけじゃないんです。行きたいから行くんです」と言った。
その言葉が、今も頭に残っていた。
行きたいから行く。
アカリは自分のことを考えた。NPOに行きたいから行っている。ムギのご飯を用意したいから起きる。さやかの話を聞きたいから席に座る。一年前と違うのは、やることが義務ではなく、少しずつ、したいことに近づいていることだった。
久我山のことを考えることが、以前より減っていた。
ゼロではなかった。ふとした時に、五年前の人事部の部屋を思い出した。「思い込みでは?」という言葉が蘇った。しかしその後に来る怒りが、以前より短くなっていた。怒りが来て、過ぎて、また今に戻る。その時間が、短くなっていた。
拓海のことも考えることがあった。
あの人が来なければ、今のアカリはなかった。それは事実だった。しかし柏木真司も死ななかった。その事実も消えなかった。どちらも本当のことで、アカリはその両方を抱えていた。
ムギが喉を鳴らした。
アカリは手をムギの背中に置いた。温かかった。
スマートフォンが鳴った。山本弁護士からだった。
「今、話せますか」という短いメッセージだった。
「話せます」と返した。
電話が来た。
「拓海さんの追加裁判の日程が決まりました」と山本弁護士は言った。「それとは別に、拓海さん側の弁護士から連絡がありました。服役が終わった後、水野さんに直接謝罪したいという意向が伝えられています。会うかどうか、今すぐ決める必要はありません。ただ、伝えておきたかった」
アカリは電話を持ったまま、しばらく黙った。
「分かりました」と言った。「考えます」
電話を切った。
ムギがアカリの顔を見た。
「どう思う?」とアカリはムギに言った。
ムギは何も言わなかった。目を細めた。
窓の外で、初夏の夜が続いていた。
答えは出なかった。しかし今夜は、答えを出さなくていいと思った。
考える時間が、あった。
それだけで、十分だった。




