「拓海の返事」
事件から約一年半後・初夏 午後2時〜夜
手紙が届いたのは、木曜日だった。
差出人の名前を見た瞬間、手が止まった。
久我山誠一郎。
父の名前だった。十一年間、連絡がなかった。母の葬儀にも来なかった。その人間から手紙が来た。
封を開けなかった。
一日置いた。
翌日、また見た。封を開けなかった。
二日後、朝に目が覚めた時、読もうと思った。理由は分からなかった。ただ、今日読もうと思った。
封を開けた。
便箋が一枚入っていた。丁寧な字だった。父の字だった。子供の頃に見た字と同じだった。
読んだ。
「あなたが小学生の頃、一緒に図書館に行ったことを覚えていますか」
覚えていた。
蟻の研究だった。公園で土を掘り返した。父が「調べてみよう」と言った。図書館で本を読んだ。父が本のページを一緒に捲った。あの日、父は普通の父だった。一度だけ。
続きを読んだ。
謝罪の言葉があった。母への言葉があった。水野さんへの言葉があった。そして最後に「出た後、どこかで会えますか」という一文があった。
拓海は便箋を置いた。
会う。
その言葉の重さを測った。長い時間をかけて測った。
会いたくなかった。しかし会いたくないという感情の下に、別の感情があった。図書館の日の父の顔が、今も消えていなかった。あの日だけは、普通の父だった。その事実が、消えなかった。
返事を書くかどうか、三日考えた。
四日目の朝、便箋を取り出した。
「父へ」と書いた。
止まった。
「図書館のことは覚えています」と書いた。「蟻が女王蟻を中心にした社会を作ることを、あの日初めて知りました」
続けた。
「会うかどうかは、まだ答えられません。ただ、手紙は読みました。それだけは伝えます」
封筒に入れた。
父のアパートの住所は、手紙の差出人欄に書いてあった。
送った。
部屋に戻った。母の写真を見た。
写真の中で、母が微笑んでいた。
「どう思う」と拓海は母に言った。
返事はなかった。
しかし返事がないことも、答えの一つだと拓海は思った。
窓の外で、初夏の風が木を揺らした。
緑が濃かった。




