「早瀬の誕生日」
事件から約一年半後・春 午後7時〜午後10時
署を出たのは午後7時だった。
桑田が「今日誕生日ですよね」と言ったのは夕方だった。早瀬が「なんで知ってる」と聞くと「人事記録です」と答えた。
「何かしたいですか」と桑田が聞いた。
「何もしなくていい」と早瀬は言った。
「じゃあ缶ビールだけ」と桑田は言い、自販機で二本買ってきた。
署の裏の駐車場に出た。ベンチがあった。二人で座った。春の夜だった。風が穏やかだった。
缶を開けた。乾杯もしなかった。ただ飲んだ。
「三十八ですか」と桑田が言った。
「そうだ」と早瀬は答えた。
「老けましたね」と桑田が言った。
「余計なお世話だ」と早瀬は言った。
桑田が笑った。早瀬も少し笑った。
しばらく黙って飲んだ。駐車場の向こうを車が通った。春の虫の声がした。
「この一年半、どうでしたか」と桑田が聞いた。
早瀬は缶を持ったまま、夜空を見た。
「長かった」と言った。「しかし振り返ると短い気もする」
「柏木さんのことは」と桑田が聞いた。「まだ考えますか」
「毎日ではないが」と早瀬は答えた。「ふとした時に考える。あの朝、もう少し早く動いていれば、という考えが来る。しかしそれを考えても意味がないと分かっているから、すぐにやめる」
「意味がないですか」
「過去は変えられない」と早瀬は言った。「変えられるのは今だけだ」
桑田は頷いた。
「水野さん、NPOで頑張っているみたいですね」と桑田が言った。
「田所さんから聞いたか」
「早瀬さんから聞きました。先週」
「そうだったか」と早瀬は言った。記憶になかった。しかし言ったのかもしれなかった。
「拓海はどうですか」と桑田が聞いた。
「服役中だ。追加起訴の審理が続いている」と早瀬は答えた。「面会に行った時、出た後に水野さんに謝りたいと言っていた」
「謝れると思いますか」
「分からない」と早瀬は言った。「水野さんが会うかどうかも分からない。しかし拓海がそう思っているという事実は、ある」
缶が空になった。
桑田が「もう一本どうですか」と言った。
「いい」と早瀬は答えた。「明日も早い」
立ち上がった。駐車場の明かりが、二人の影を伸ばした。
「来年も誕生日、覚えておきます」と桑田が言った。
「覚えなくていい」と早瀬は言った。
「覚えます」と桑田は言った。
早瀬は何も言わなかった。
悪くない夜だった。
それだけだった。それで十分だった。




