「さやかの声」
事件から約一年後・冬 午後2時〜午後6時
早瀬刑事の向かいに座った。
取調室ではなかった。署の中の小さな相談室だった。テーブルと椅子が二組。窓が一つ。外に木が見えた。葉が落ちていた。冬の木だった。
「話せる範囲で構いません」と早瀬は言った。「ゆっくりで大丈夫です」
さやかは手元のカップを見た。お茶だった。誰かが用意してくれていた。温かかった。
「交際したのは一年前です」と言った。「知り合ったのはSNSのコミュニティでした。趣味が合って、すぐに仲良くなりました。三ヶ月後に付き合い始めました」
「交際中はどんな様子でしたか」
「最初は優しかった」とさやかは言った。「でも二ヶ月目ぐらいから、変わり始めました。私のSNSを全部チェックするようになった。誰と話したか、どこに行ったか、全部報告しろと言うようになった」
「それを断りましたか」
「最初は言われた通りにしていました」とさやかは言った。「断ったら機嫌が悪くなるから。でも四ヶ月目に、もう無理だと思って別れを切り出しました」
「その後は」
さやかは窓の外を見た。
「最初はメッセージでした。謝罪と怒りが交互に来た。一日百件以上の時もありました。ブロックしたら職場に電話が来ました。名乗らずに『さやかさんはどんな人ですか』と同僚に聞く電話です。三回来ました」
「警察には相談しましたか」
「しました」とさやかは答えた。「しかしその時点では、証拠が薄かった。様子を見てくださいと言われました」
早瀬は何も言わなかった。
さやかは続けた。
「それから一ヶ月後に、動画が出ました。友人から『さやかに似た動画が出てる』という連絡が来た。見た瞬間に、自分だと分かりました。声も顔も自分だった。でも、私はそんな動画を撮っていない」
「最初に見た時、どう感じましたか」
さやかは少し間を置いた。
「消えたいと思いました」と言った。静かな声だった。「消えたいというより、存在しなかったことにしたいと思いました。あの動画が世界に存在する限り、私も存在してはいけない気がした」
早瀬はその言葉を受け取った。
水野アカリが睡眠薬を飲んだ夜のことを、思い出した。消えたいと思う気持ちを、早瀬は理解できなかった。しかし理解できなくても、受け取ることはできた。
「今は」と早瀬は聞いた。「消えたいと思いますか」
さやかは首を横に振った。
「思いません」と言った。「怒っています。消えたいより、怒りの方が大きくなりました」
「その怒りを、使いましょう」と早瀬は言った。「あなたの声は証拠になります。あなたが話してくれたことが、裁判で力を持ちます」
さやかは早瀬を見た。
「裁判になりますか」と聞いた。
「なります」と早瀬は答えた。「高橋の供述次第ですが、なる方向で動いています」
窓の外の冬の木が、風に揺れた。葉のない枝だけが揺れた。
さやかはそれを見た。
「枯れているように見えて、春になったら芽が出るんですよね」と言った。
「そうですね」と早瀬は答えた。
さやかは頷いた。
カップのお茶を飲んだ。冷めかけていた。それでも飲んだ。




