「法廷の準備」
事件から約一ヶ月後 午前10時〜午後3時
弁護士事務所の会議室は、窓が大きかった。
秋の光が差し込んでいた。真司が死んだのは夏だった。あれから一ヶ月が経ち、空の色が変わっていた。加奈子はその光を見ながら、テーブルの上の書類を眺めた。
訴状の草案だった。
被告の名前が並んでいた。「炎上系YouTuber・レイジ(本名・村上怜司)」「特定班のまとめサイト運営者」「電凸を呼びかけたアカウントの運営者三名」。弁護士が絞り込んだ、現時点で最も立件可能性の高い相手だった。
「七万八千人全員は無理です」と弁護士は最初に言った。「しかし核心的な役割を果たした者については、不法行為責任を問える」
加奈子はそれを聞いた時、泣かなかった。
全員ではない。それは分かっていた。分かっていたが、改めて言葉にされると、何かが胸に刺さった。七万八千人のうち、法の前に立つのは数人だけだ。残りは何も問われないまま、今日も生活している。
「納得できない部分はありますか」と弁護士が聞いた。
「ない」と加奈子は答えた。「やれることをやります」
弁護士が書類を開いた。損害賠償の算定根拠を説明した。真司の収入、精神的苦痛、彩の養育費への影響。数字が並んだ。
加奈子は数字を見ながら、真司のことを思った。
真司はお金の話が苦手だった。給料日に何を買おうかと嬉しそうにしていた。節約も得意ではなかった。そんな人間の死が、数字として算定されている。生きていた人間が、計算式になっている。
それが裁判というものだと、加奈子は理解していた。
理解した上で、やると決めていた。
彩のために。真司のために。そして次に同じことが起きた時に、少しでも止まる力になるために。
午後一時、弁護士が別の書類を出した。
「レイジ側から連絡がありました」と言った。「示談の申し入れです」
加奈子は書類を見た。
「断ります」と言った。
「理由を聞いてもいいですか」
「法廷で言わせたいから」と加奈子は答えた。「お金じゃないから。ちゃんと、法廷で」
弁護士は頷いた。「分かりました」と言った。
窓の外で、風が木を揺らした。
秋の光が、会議室の床を移動していた。真司が好きな季節だったと、加奈子は思い出した。秋になると、よく公園に散歩に行った。彩を肩車しながら、落ち葉を踏んだ。
今年の秋は、三人ではなかった。
しかし加奈子と彩は、ここにいた。
書類にサインをした。手が震えなかった。震えなくなった日がいつだったか、加奈子は覚えていなかった。気づいたら、震えなくなっていた。




