「流れていくもの」
早瀬凌は、窓の外の高速道路を見ていた。
いつもと同じ景色だった。車が流れていた。止まらなかった。
書類仕事が積み上がっていた。事件は終わっていなかった。久我山拓海の裁判はこれからだった。水野アカリの処分も決まっていなかった。加奈子の民事訴訟も始まったばかりだった。
しかし早瀬には、この事件から学んだことがあった。
七万八千人の怒りは、一人の人間を殺した。法律は七万八千人を裁けない。しかし七万八千人がいなければ、柏木真司は死ななかった。その事実は消えない。
早瀬はキーボードを叩いた。次の書類に向かった。
——加奈子は、弁護士事務所の待合室にいた。
今日で三回目の相談だった。民事訴訟の準備が進んでいた。特定班の中心人物、レイジ、電凸を呼びかけたアカウント。訴訟の対象が少しずつ絞られていた。
全員を訴えることはできない。弁護士にそう言われていた。しかし一人でも多く、法の前に立たせたかった。真司のためではなかった。彩のためだった。
「お母さん、勝てるの?」と彩に聞かれた日のことを思い出した。
「勝ち負けじゃないよ」と加奈子は答えた。「ちゃんとやったことを、ちゃんとやったって言える場所に連れて行く、ということ」
彩は「ふうん」と言った。七歳にはまだ難しかったかもしれない。しかしいつか分かる日が来ると、加奈子は思っていた。
——アカリは、山本弁護士と向き合っていた。
処分の方向性が出てきていた。久我山誠一郎がセクハラを認めたこと、拓海に誘導されていたことが証明されたこと、マルウェアによって声を無断使用されたことが考慮されていた。
「執行猶予がつく可能性が高い」と山本弁護士は言った。
アカリは頷いた。
「ムギは元気ですか」と山本弁護士が聞いた。
アカリは少し驚いた。弁護士がムギの名前を知っていた。どこかで話していたらしかった。
「田村さんのところで、元気にしているそうです」とアカリは答えた。「会いに行きました」
帰れる日が来たら、迎えに行く。それだけが今のアカリの、具体的な目標だった。
——拓海は、接見室で母の写真を見ていた。
弁護士が差し入れてくれた。押収されたPCの中から、写真データを取り出して印刷してくれた。
写真の中で、母が微笑んでいた。
証言は届いたのか。
その問いの答えは、まだ出ていなかった。しかし世界に出た。それは確かだった。父が認めた。ネットが知った。早瀬が書類に残した。
それで十分なのかどうか、拓海にはまだ分からなかった。
——ある夜、ひとりの人間がスマートフォンを開いた。
四十代の会社員だった。名前は出てこない。あの時期、「#柏木真司を許すな」というタグを三件投稿していた。特定スレに書き込んでいた。無言電話はしていなかった。出前も送っていなかった。しかしタグは使った。
今夜、スマートフォンを開いたのは、別の炎上案件を見るためだった。新しい標的がいた。新しいスレッドが立っていた。新しいタグが生まれかけていた。
その人間は、スマートフォンを閉じた。
なぜ閉じたのか、自分でも分からなかった。ただ、閉じた。
部屋が静かになった。
画面が暗くなった。
暗い画面に、自分の顔が映った。
その顔を、しばらく見た。
証言者は、あなたです。
誰かがそう言った気がした。声ではなかった。どこからでもなかった。しかし確かに、聞こえた気がした。
スマートフォンを置いた。
部屋の静けさの中で、その人間はしばらく、自分の顔を思い出していた。




