「加奈子の決断」
16日目 午前9時〜午後4時
真司が死んでから、八日が経っていた。
加奈子は台所に立ち、湯を沸かしていた。コーヒーを入れるためではなかった。ただ、湯を沸かすという行為をしていないと、何もできなかった。手を動かしていないと、考えることしかできなかった。
彩は学校に行っていた。
学校に戻ったのは三日前だった。担任の教師が家まで来て、「彩ちゃんが来られる準備ができたら、いつでも」と言った。彩は翌朝、自分でランドセルを背負って「行ってくる」と言った。加奈子は玄関で見送りながら、泣かないようにした。泣けなかった。涙が出なかった。
湯が沸いた。
カップに注いだ。お茶だった。真司が好きだった緑茶だった。習慣で買い続けていた茶葉を、今日も使った。
居間に戻り、ソファに座った。
テーブルの上に、封筒があった。
遺書だった。警察から返却されたのは五日前だった。加奈子はそれを、テーブルの上に置いたまま、開けていなかった。中に何が書いてあるか、知っていた。警察から内容を教えてもらっていた。しかし自分の目で読む気になれなかった。
今日、読もうと思った。
封筒を手に取った。
中の便箋を出した。薄い青色だった。結婚する前に、加奈子が買った便箋だった。一度も使っていなかったはずの便箋が、真司の字で埋まっていた。
読んだ。
「加奈子へ」という書き出し。「ネットの誹謗中傷に、耐えられなくなりました」という一文。「彩に、パパは弱かったと伝えてください」という言葉。
最後まで読んだ。
加奈子はしばらく便箋を持ったまま、動かなかった。
弱くなかった、と思った。
この一週間、毎日そう思っていた。弱くなかった。ただ、追い詰められた。追い詰めたのは誰か。加奈子にはそれが、ずっと頭にあった。
午後一時、加奈子はスマートフォンを手に取った。
弁護士の名前を検索した。ネット上の誹謗中傷に詳しい弁護士。そういう言葉で検索した。いくつかの事務所が出てきた。
一件に電話をかけた。
受付の女性が出た。「誹謗中傷による被害について相談したい」と加奈子は言った。「夫が、ネット上の中傷が原因で亡くなりました」と言った。
声が震えた。初めて他人に、その言葉を言った。
「ご状況をお伺いできますか」と受付が言った。加奈子は話した。動画のこと。特定班のこと。無言電話のこと。出前の嫌がらせのこと。YouTuberの突撃のこと。タグの七万八千件のこと。
話しながら、それが全部現実だったのだと改めて思った。夢ではなかった。すべて本当に起きたことだった。
「弁護士と面談のお時間を取らせていただけますか」と受付が言った。「来週でも大丈夫ですか」
「はい」と加奈子は答えた。
電話を切った後、加奈子は窓の外を見た。
十六日目の午後だった。空は曇っていた。風がなかった。真司が死んだ日も、こんな空だったかもしれないと思った。覚えていなかった。あの朝のことは、断片しか覚えていなかった。
便箋を折り、封筒に戻した。
引き出しにしまった。
真司の字が、その中にあった。消えない字が、加奈子の手の届く場所にあった。
彩が帰ってくるまで、三時間あった。




