「包丁を買う」
14日目 ホテルの部屋(回想:三日前)
窓の外で日が沈みかけていた。
アカリはベッドに横になったまま、三日前のことを思い出していた。久我山の出張スケジュールを確認した日。今夜がその日だと確信した日。そして包丁を買いに行った日。
三日前の午後、アカリはホームセンターへ行った。
電車で三駅。普段は行かない場所を選んだ。顔見知りに会いたくなかった。もっとも、五年間でアカリの顔を知る人間は、この街にはほとんどいなかった。それでも、選んだ。
ホームセンターは広かった。
平日の昼間で、客は少なかった。アカリは調理器具のコーナーへ向かった。包丁が並んでいた。様々な種類があった。野菜用、肉用、万能型。値段も形も様々だった。
アカリは一本を手に取った。
万能包丁だった。刃渡り十八センチ。持ち手が黒く、刃が銀色に光っていた。重さは適度だった。軽すぎず、重すぎない。
「お料理ですか?」
声がした。
振り返ると、店員だった。五十代の女性で、エプロンをしていた。笑顔だった。悪意のない、ただ親切な笑顔だった。
アカリは一瞬、止まった。
「はい」と答えた。
嘘だった。しかし他に答えようがなかった。「人を刺すためです」とは言えなかった。言えるはずがなかった。
「でしたら、このあたりが使いやすくておすすめですよ」と店員は言い、別の包丁を手に取った。「刃の厚みがちょうどよくて、野菜も肉も切りやすいんです」
アカリは店員の説明を聞いた。
料理の話をされていた。野菜の切り方、肉の下処理、刃の研ぎ方。店員の声は穏やかで、丁寧だった。悪い人間ではないと思った。ただ親切な、普通の人間だった。
その普通さが、アカリには眩しかった。
この人は今日も明日も、同じように客に包丁を勧め、同じように笑い、同じように家に帰るのだろう。その当たり前の連続が、アカリには五年前から途切れていた。
「これにします」とアカリは言い、最初に手に取った包丁を持ったままレジへ向かった。
店員は「ありがとうございます」と言った。
レジで会計をした。二千八百円だった。袋に入れてもらった。「またお越しください」という声を背中に受けながら、店を出た。
帰り道、袋の中の重さを感じながら歩いた。
柏木真司も、こんな気持ちだったのだろうかと思った。
ロープを買って帰った日。袋を提げて歩いた道。その重さ。アカリは柏木のことをニュースで知っていた。動画を見た時から、柏木の名前を追っていた。自分とは関係のない話だと思っていた。しかし今、同じような袋を持って歩きながら、柏木の姿が重なった。
違う、とアカリは思った。
柏木は追い詰められた末に死を選んだ。アカリは違う。アカリは選んでいる。自分の意志で、この包丁を持って、この道を歩いている。
その違いが、アカリには重要だった。
ホテルの窓の外が、完全に暗くなっていた。
17時を過ぎていた。
フロントから内線が鳴った。アカリは受話器を取った。「お客様、ご予約のルームサービスのご確認でございますが」という声だった。
アカリは適当に答えて電話を切った。
スマートフォンを確認した。久我山のSNSに、三十分前の投稿があった。「出張先に到着。今夜は一人でゆっくり」という言葉と、ホテルの近くの写真だった。
もうすぐだった。




