第1話 料理スタジオは戦場です
「ガッシャーン!」
とキッチンスタジオに響き渡る、お皿が落ちた大きな音。
そして、慌てて落ちたお皿を拾い上げながら、
「あなた邪魔よ! もっと端っこに行って!」
と、花森のことを睨みつけるスタッフ。
お皿を運んでいたスタッフと、その移動先にいた新人編集者の花森がぶつかって、お皿を床に落としたスタッフから、花森が怒られたのだった。
お皿は割れずに済んだようで、
「失礼しました!」
と深々と詫びる花森を無視して、スタッフがさっさと皿を運んでいく。
ペコペコと頭を下げながら、端の壁まで移動して、気慣れないスーツ姿で花森が縮こまっていると、
「アシスタントの方の邪魔をしちゃだめでしょ、花森さん」
と、やんわりとした声で、先輩編集者の加藤美恵から注意を受ける。
もちろん、その顔は笑っていない。
花森は、今日は編集見習いの立場で、勉強として先輩編集者の加藤が担当する、新しい料理本の撮影現場の見学に来ているのだが。
さっきから殺伐とした現場の雰囲気に飲まれてしまって、気づかないうちに移動の動線に立っていて、突進してきたスタッフに気づけなかったのだった。
今日の撮影は、キッチンスタジオで料理研究家の和田蓮美先生の料理本の撮影を行っている。
朝から、和田先生が料理を作っては撮影するのを、繰り返している。
撮影用に作った料理を試食できるということで、ウキウキして撮影用キッチンのあるスタジオにきた花森だったが、そのハードな現場の様子に圧倒される。
何がハードかといえば、レシピに沿って一日中何品も料理を作って和田先生が味見して、OKならカメラマンが撮影する、を繰り返すわけだが、それが尋常な数ではないのだ。
レシピも材料も事前に用意されているものの、撮影用の調理をしながら、和田先生がレシピに手を加えて内容を更新していくので、スタッフもそれに対応しなければならない。
次に撮影される料理の下ごしらえを、レシピを見ながら黙々と行うスタッフ、追加された材料を探しにいくスタッフ、色々なお皿を用意して先生に見てもらうスタッフなど。
和田先生が味のチェックをするだけで、スタッフはできた料理を一口も食べずにキビキビと作業を続ける。
ラップされた料理が隅のテーブルに乗せられて行く。
ああ、出来立ての料理がとても美味しそうなのに、と花森が思いながらも、現場の雰囲気はとても試食できるような雰囲気ではなかった。
花森が、中堅出版社のララサンシャイン社に新卒で入社して5年目。
今はレシピ本を担当する編集者なわけだが、まだ一冊も本を担当していない。
というのも、編集希望として今の会社に入社できたものの、最初の3年は書店営業を担当して出版業界について学び、その後の2年間はネット書店の販売促進を担当していた。それが、最近急に、憧れの書籍編集部に移動できたのだった。
幼いころから、読書と料理が趣味で、中学生の頃から憧れている、若手料理研究家のアンズ先生のレシピ本を出している、ララサンシャイン社に就職できたことはラッキーだったのだが。
内気な性格の花森が、入社後すぐに書店営業を担当することになったのは大変だったが、憧れのアンズ先生の本を書店に売り込んだり、販促計画を考えるのは楽しかった。
日々の仕事の中で出版業界の独特のルールを学びつつ、オンラインの編集学校に通いながら腕を磨き、編集部への異動を夢見る日々だったのだが。
ある日突然、編集部の部長、山下正司に呼び出されて、
「花森さんって、編集志望だよね。何度も異動希望を出している。それで、来月から実用書の編集部に異動してもらいたいんだけど、問題ないよね?」
と突然、夢が叶ったのだった。
ただ花森が、編集部に移動できたのには訳があって、アンズ先生の担当編集者である中沢真理が、先日脳梗塞で倒れて入院したため、代わりに料理本の編集を担当する人間が必要になったからだったのだ……。
花森が勤めるララサンシャイン社は総勢60人で、そのうち編集者が15人という小さな会社で、実用書を得意としている出版社だ。
ただ、料理本の担当は、病に倒れた中沢と加藤の二人しかいない。
加藤は、料理好きなお嬢さんって感じの人で、抱えている自分の本の企画で手一杯になっていた。
倒れた中沢が復帰するまでの間、彼女が進めていた料理本の企画を代わりに担当する役目を担って異動になったのが、花森だったわけだ。
この5年間、編集学校のオンライン講座を受けたり、有名編集者のセミナーに通ったり、出版業界の交流会に顔を出したりして、異動になる日を夢見てきたものの、まだ何の実績もなく、今日も先輩の撮影現場を見学して編集業務を勉強中だ。
「花森さん、ここにある料理、レンジでチンして適当に食べてくださいって」
と、花岡をこの場所に連れて来てくれた編集部の部長、山下が声をかけてきた。
部長の山下は、ワインやウイスキー、コーヒーといった飲みものの実用書を得意とする、気のいいおじさんで、黒スーツ姿のいかにも管理職という感じで、あまり編集者という雰囲気ではない。
「ごめんね。みんな作業に追われてて、作った料理を味わう時間もないみたいで。撮影済みの料理をたくさん食べてくれると嬉しいって」
と言って、花森を料理が並んでいるテーブルに誘う。
「いま作っているのは再来月発売の『冷めても美味しい作りおき弁当』用の料理だから、このまま食べても大丈夫だけど。
温めたかったら、あそこのレンジを使ってね」
と言って手近にあった料理を、立ったまま食べ出す。
花森もテーブルに並んだお惣菜を、立ったまま手を出した。少し冷めているものの、とっても美味しい。
「皆さん、とてもお忙しそうですね。
料理本の撮影って、作った料理を食べながらもっと和気あいあいとやっているものだと思ってました」
と花森が言うと、部長の山下が、
「昔はもっと撮影日程に余裕があったけどねー。
いまは予算が厳しくて撮影日が少ないから、とにかくたくさん作って使える写真を撮らないといけないからねー。
まあ、お昼の時間は確保しているから、聞きたいことがあったら、その時に来てみるといいよ」と言った。
そうなのだ。何十種類とある、本に載せる予定の料理を、決められた時間で作って撮影しないといけない。
今回は、料理家の和田先生が普段使っている料理教室をスタジオとして使っているからまだいいが、自前のスタジオが用意できない先生だと、スタジオ代もバカにならないし、アシスタントやカメラマン、スタイリストの費用もバカにならない。
最近は、本に動画を付けたり、SNS用の写真や配信用の動画撮影も必要で、そのための撮影時間の確保しないといけないので、コストも時間も昔より必要になっている。
本に載せるレシピ通りに調理して、味見して、問題なければ撮影する、ということをずっと繰り返し、同時進行で何品もの料理を作っていく。下ごしらえ済みの材料を、テーマごとに和田先生の指示でドンドン調理して撮影に回して行く。
今回は本に載せるレシピが、予備分も含めて100品は必要で、流行のかんたんレンチン料理でも、調理から撮影まで30分~1時間ぐらいで 一品撮り終えても1週間はかかる計算だ。
今日は、和田先生が料理教室で使っているキッチンだからスタジオ代はかからないものの、その間は料理教室をお休みすることになる。
本がヒットしなければ、和田先生が手にする印税は数十万円にしかならない。材料費や撮影費用は出版社持ちだが、それでも大赤字だ。
なので、なんとしても一週間で撮影を終わらないといけない、らしい。
「昔は良かったなー。余裕があって、食べたりおしゃべりしたりしながら、撮影でききたんだ」
と言いながら、健康を気にしてか、サラダばかりを味わう部長の山下。
それなら、ここは若い私が! とパクパク食べ始める、花森。
お、おいしー! やっぱりプロは違う!
いかにもご家庭で手軽に作れますって料理ばかりに見えるが、プロが作ると冷めてても、こんなに美味しいんだ!
と感動しながら食べていると、さっき怒ってきたスタッフさんがやってきて、
「あなた、食べっぷりがいいわねー、助かるわー。私たちだと味が薄くてさー」
と言って、横に座るとカップ麺にお湯を入れると、あっという間に食べ終えて撮影に戻って行った。
確かに、最近の薄味で健康的、量もこじんまりした料理では、この戦場は生き残れない、と感心した花森が、自分にできることはこれだけ! と思いを新たにバクバク食べていたら、
「花森さん! 食べてばかりでどうするの! 撮影の段取りとか、料理の撮影方法とか、勉強しなさい」
と先輩の加藤から叱られる花森だった。




