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第8章 再会の涙と、約束のクリームパン

旅行から帰って数週間後。


グラシアス・タワー1203号室は、静かすぎた。

オレ——甘野杏は、ベッドの横に置いたスーツケースへ、畳んだ服を一枚ずつ詰めていた。


ここへ来た時は、もっと荷物が少なかった。


製菓学校の教科書。

バイト用の着替え。


ふあふあベーカリーで使っていたメモ帳。

彰が勝手に買ってきた高級すぎる部屋着。


キッチンに置いたマグカップ。

ソファの端に置きっぱなしだったクッション。


全部に、彰と過ごした時間が染み込んでいる気がした。


「……杏」


背後から、低い声がした。

振り返る前に、大きな腕がオレを包み込む。


彰の胸板が背中に触れ、首筋に何度もキスが落ちた。


「ん……彰……」

「もう少し、ここにいろ」


彰の声は、いつもより掠れていた。

命令みたいなのに、どこか縋るような声だった。


オレは彰の腕に手を重ねる。


「彰……オレも、離れたくない」

「なら、いろ」


「でも、約束だよ」


彰の腕に、さらに力が入った。


「約束なんか、どうにかすればいい」

「彰」


オレはゆっくり振り返った。

彰の顔が、苦しそうに歪んでいる。


胸が痛い。

本当はオレだって、ここにいたい。


毎朝、彰に抱きしめられて、パンを焼いて、バイトに行って、学校へ行って、帰ってきたら


「おかえり」


って言われたい。

でも、期限は最初から決まっていた。


「オレ、ちゃんと戻るって決めてたから」

「……杏」


「さようなら……じゃない」


オレは無理やり笑った。


「また、会おうね」


彰は何も言わず、オレの頬を両手で包んだ。

そして、深くキスをした。


「んっ……♡」


息が苦しくなるくらい、長いキス。

離れたくない。


離したくない。

そんな気持ちが、唇から伝わってくる。


「……好きだ」


彰が額を押し当てたまま囁く。

オレは涙を堪えながら笑った。


「オレも……彰が好き」


「杏」

「ん?」


「本当に、また会えるよな」

「うん」


「絶対だぞ」

「うん……絶対」


彰はもう一度、オレを強く抱きしめた。


****


玄関。

タクシーが下で待っていた。


彰はオレのスーツケースを持ったまま、最後まで手を離そうとしなかった。


「彰、荷物」

「持って行く」


「どこまで?」

「お前の実家まで」


「いや、それはだめでしょ♡」

「だめか」


「だめだよ」


いつもなら笑えるやり取りなのに、今日は胸が詰まる。

彰はオレの髪を撫でた。


「ちゃんと飯食え」

「子供じゃないんだけど」


「甘いものばっかり食うな」


「そこまで管理する?」

「する」


「ほんと、重い彼氏……」

「今さらだ」


オレは笑った。

でも、もう涙が限界だった。


「彰」

「ん?」


「本当に、ありがとう」


彰の目が揺れる。


「……行くな」


その一言で、胸が壊れそうになった。

オレは彰に抱きつき、強く背中を抱いた。


「また会うから」


「絶対だぞ」

「うん」


「絶対だ」

「うん……」


最後にもう一度、唇が重なる。


「んっ……♡」


甘くて、苦しくて、切ないキスだった。

タクシーへ乗り込む。


窓越しに見る彰は、ずっとオレを見ていた。


「さようなら……じゃない。また、会おうね」


そう呟いた瞬間、タクシーが走り出した。

彰の姿が遠ざかる。


オレはとうとう、涙をこぼした。


「……彰……っ」


****


一方、大鷹彰は一人残された部屋で、しばらく立ち尽くしていた。

ドアが閉まった後の静寂が、あまりにも重い。


杏の声がない。

キッチンから甘い匂いもしない。


ソファに座っても、隣に体温がない。

彰は、杏が残していったエプロンを手に取った。


白い布地には、ほんの少し甘い香りが残っている。


「……杏」


そのまま、膝をついた。

雨宿りの日。


初めて会った瞬間の衝撃。

ふあふあベーカリーで笑っていた杏。


優の来訪で泣いた顔。

スイーツビュッフェでメモを取っていた真剣な顔。


南の島で、幸せそうに笑っていた顔。

ベッドで、腕の中で、甘く名前を呼んだ声。


全部が走馬灯のように蘇る。


「……会いたい」


呟きは、誰もいない部屋に落ちた。


****


仕事中も、心は上の空だった。


大鷹グループ本社会議室。

新プロジェクトの資料が並び、役員たちが説明を続けている。


「次期ホテルの目玉企画ですが、レストランフロアの強化案を——」

「……」


「社長?」


彰は資料を見ていた。

しかし、何も頭に入っていない。


ホテル。

菓子。


パン。

クリーム。


その言葉が出るたび、杏が浮かぶ。

玄太がそっと横から囁いた。


「社長、魂が1203号室に置き去りです」

「……うるさい」


「杏様ロスですねぇ」

「黙れ」


否定できない自分に、彰は小さく舌打ちした。

そんな中、父親から連絡が来た。


画面に表示された名前を見ただけで、胸の奥に冷たいものが落ちる。

彰はしばらく見つめてから、通話に出た。


『これ以上は待たない。見合いの日程が決まった。絶対に来い』


低く、命令のような声。

これまで何度も先延ばしにしてきた話が、ついに形になった。


彰は窓の外を見る。

そこに、杏はいない。


杏を失った今、どんな未来も色褪せて見えた。

誰と会おうが、誰を隣に置けと言われようが、もうどうでもいい。


「……分かった」


投げやりに答えて、通話を切る。

玄太が心配そうに見つめた。


「社長」

「何も言うな」


「ですが」

「言うな」


彰は椅子に深く座り、目を閉じた。

頭に浮かぶのは、ただ一人。


杏だけだった。


****


お見合い当日。

高級ホテルの庭園。


手入れされた緑。

静かに流れる水音。


格式だけは立派な場所だった。

彰はやる気のない顔で、庭を眺めていた。


相手の情報も、写真も、まともに見ていない。

見る気がなかった。


誰が来ても同じだと思っていた。


その時。

背後から、聞き慣れた声がした。


「はじめまして、よろしくお願いします」


彰の身体が固まった。

ゆっくり振り返る。


そこに立っていたのは、正装した甘野杏だった。

白を基調にした上品な服。


少し緊張した顔。

それでも、まっすぐ彰を見つめる瞳。


「……杏……?」


声が震えた。

杏は少しだけ悪戯っぽく笑う。


「なんてね、久しぶり! 彰!」


その瞬間、彰の膝から力が抜けた。


「彰!?」


杏が驚いて駆け寄るより早く、彰は立ち上がり、杏を強く抱きしめた。


「杏……杏……! 本当に、お前なのか……!」


腕の中に、確かな体温がある。

甘い匂いがする。


あの日々と同じ、杏がいる。

彰の目から、涙が溢れた。


杏も彰の背中へ腕を回し、声を詰まらせる。


「オレも……彰だって分かった時は、大泣きしたよ」

「……お前、知ってたのか」


「うん。お見合い写真と相手の情報を見たから」


杏は少しだけ涙ぐみながら、彰を見上げた。


「どうしてそんなに驚いているの? お見合い写真や相手の情報、見てなかったの?」


彰は言葉を失った。


「……見てなかった」

「彰らしいような、らしくないような……」


「お前がいない未来なんか、どうでもよかった」

「っ……」


杏の目にも涙が浮かぶ。

二人は庭園の真ん中で、しばらく強く抱き合っていた。


その時、少し離れた場所から、恭しく声がした。


「社長、お車の準備が整っております」


杏の身体が、ぴたりと固まる。


「……社長?」


彰の背中越しに、杏が声の方を見る。

そこには、年配の男性が深々と頭を下げていた。


姿勢が美しく、隙がない。

ホテルスタッフではない。


けれど、ただの会社員にも見えない。

彰は気まずそうに目を逸らした。


「玄太」

「はい、社長」


杏の目がさらに丸くなる。


「玄太さん?」


その名前だけは知っていた。

彰の会社の、やたら有能な手配担当。


電話口でいつも彰を困らせているらしい人。

でも、目の前の男性は、想像していた“イベント会社の手配担当”とは何かが違いすぎた。


玄太は杏へ向き直り、深々と頭を下げた。


「初めまして、杏様。大鷹家執事兼、大鷹グループ社長秘書の橘玄太でございます」


一瞬、風の音だけが聞こえた。

杏は固まったまま、ゆっくり彰を見た。


「……大鷹家?」

「……」


「大鷹グループ?」

「……杏」


「社長?」

「……すまない」


杏は口を開けたまま、数秒止まった。

それから、震える声で言った。


「え、えええええ!?」


庭園に、杏の声が響いた。


「彰、イベント会社の社員じゃなかったの!?」

「……正確には、イベント案件も扱うグループではある」


「言い方!」

「すまない」


「VIP案件って!?」

「……俺がVIP側だった」


「石油王は!?」

「嘘だ」


「全部じゃん!」


玄太が横から、申し訳なさそうに頭を下げる。


「杏様、この玄太、手配担当という点だけは嘘ではございません」

「手配担当の規模が違いすぎます!」


彰は片手で顔を覆った。


「玄太、黙れ」

「はい!」


杏は混乱した顔で彰を見つめる。


黒塗りの車。

高級タワマン。

妙に大きすぎるVIP案件。


プライベートジェット。

南の島の“手違い”。


全部が、頭の中でつながっていく。


「だから……黒塗りの車……」

「……ああ」


「店の近くに停まってたのも?」


彰は視線を逸らした。


「……たぶん、俺だ」

「やっぱり!」


「悪かった」

「彰、どれだけ見に来てたの!?」


「……必要な分だけ」

「必要って何!?」


玄太が小声で呟く。


「社長基準では、毎日が必要でございます」

「玄太」


「はい、黙ります」


杏は呆然としたまま、それでも少しずつ状況を飲み込んでいった。


怒りたい。

驚いた。

でも、目の前の彰は、泣きそうな顔で自分を見ている。


庭園で膝から崩れかけるほど、自分との再会に震えていた。

その事実が、胸を締め付けた。


「……あとで、ちゃんと全部説明して」


彰はすぐに頷いた。


「ああ。全部話す」

「嘘なしで」


「嘘なしで」

「石油王もなし」


「……ああ」

「今ちょっと間があった」


「もう言わない」


杏は小さく息を吐いた。

それから、彰の胸にもう一度額を寄せた。


「でも……会えてよかった」


彰の腕が、震えるほど強くなる。


「俺もだ」


****


個室へ移動した二人は、しばらく無言で向かい合った。

けれど、彰は杏の手を握ったまま離さない。


「彰、手……」

「離したくない」


「本当に重いね」

「今さらだ」


杏は小さく笑った。

少し沈黙した後、杏が先に口を開く。


「……黙ってて、ごめん」


彰もすぐに首を振った。


「俺もだ。杏に嘘をつき続けて……本当に、ごめん」

「オレも、家のこと言ってなかったし」


「俺は現場監督だなんて言ってた」

「そう、それ!」


杏は少しだけ身を乗り出した。


「まったく、気が付かなかったのか?」


彰が苦笑する。

杏は即答した。


「うん。だって、彰は普通のサラリーマンに見えたもん」

「普通のサラリーマン……」


「うん。ちょっと高級物件に住んでて、ちょっと手配がすごくて、ちょっと黒塗りの車が近所にいて、ちょっと旅行が大げさな普通の人」

「それは普通じゃないだろ」


「今なら分かるよ!」


彰は少し困ったように笑った。


「……くっ。お前の前では、こうなっちゃうんだよ」

「そうなんだ」


「ああ。お前といると、妙に落ち着く。格好つけても、すぐ崩れる」

「そうなの」


二人は顔を見合わせて、思わず噴き出した。


「あはは……おかしいね」

「本当に、おかしいよね」


笑いながら、涙も滲む。

離れていた時間が、少しずつ埋まっていく。


杏は照れくさそうに、けれど嬉しそうに話し始めた。


「卒業して実家に帰ってから、クリームパンの再現にチャレンジしたんだけど……まだ味が出せなくて」

「杏でも難しいのか」


「難しいよ。生地もクリームも、ちょっと違うだけで全然変わるんだよ」

「そうか」


「もっと、いろんなお店のお菓子を食べ歩けばよかった」


彰は目を細めた。


「まだ、食べ足りなかったのか?」


杏は不満げに頬を膨らませた。


「だって……」

「食いしん坊」


「それは知ってるでしょ!」


二人はまた笑い合う。

懐かしい会話。


何でもないような掛け合い。

それが、たまらなく愛おしかった。


彰は真剣な目で杏を見る。


「杏」

「ん?」


「俺の次のホテルプロジェクトの目玉に、そのクリームパンを据えよう」


杏の目が大きく開く。


「え……?」

「杏が監修してくれ」


「本当に……?」

「ああ」


「一緒にやれるの?」


彰は強く頷いた。


「ああ。一緒にやろう、杏」


杏は息を詰めた。


「でも、どうして……?」


彰は杏の手を握り直す。


「お前、ずっと言ってただろ。自分だけのクリームパンを作りたいって」

「……覚えてたの?」


「忘れるわけない」


彰の声が低く、優しくなる。


「雨の日に言ってた。高級菓子も好きだけど、結局一番安心するのはクリームパンだって。ふわっとしたパンに優しいクリームが入ってるやつが落ち着くって」


杏の目から、涙がこぼれた。


「あの日のことまで……」

「ああ」


「彰……」

「杏の夢なら、俺が形にしたい」


「そんなの……ずるい」

「ずるくていい」


彰はまっすぐ杏を見る。


「もう離さない」

「うん……オレも、離れたくない」


二人は立ち上がり、強く抱き合った。


****


その夜。

ホテルに戻った二人は、抑えきれない想いをぶつけるように身体を重ねた。


ドアが閉まるなり、彰が杏を抱き寄せる。


「杏……」

「彰……」


唇が重なる。


「んっ……♡」


長い別れの時間を埋めるみたいに、何度もキスをする。


唇。

頬。

首筋。


触れられるたび、杏の身体が甘く震えた。


「彰……やっぱり、彰の匂い、好き……♡」

「杏……俺も、お前じゃなきゃだめだ」


彰は杏をベッドへ優しく押し倒した。


「杏……やっぱり、お前じゃなきゃだめだ」

「オレも……彰じゃなきゃだめ……♡」


深く重なる。


「あっ……♡」


久しぶりなのに、懐かしい。

彰の熱が、奥までゆっくり満ちてくる。


「彰……深い……♡」

「杏、可愛い」


「んっ♡ あ……♡ やっぱり彰だ……好き……♡」


杏は彰の首筋へ顔を埋め、深くその匂いを吸い込んだ。


安心する。

胸が熱くなる。

もう二度と離れたくない。


彰は杏を見つめたまま、ゆっくり奥を擦るように動いた。


「あっ♡ ん、ぁ……♡ そこ……好き……♡」

「覚えてる」


「え……♡」

「杏がどんな声を出すか、どこで震えるか、全部覚えてる」


「彰……♡」

「でも、今日は確かめたい」


「何を……?」

「本当に、帰ってきたって」


その言葉に、涙が滲んだ。

杏は彰の背中に腕を回し、強く抱きしめる。


「うん……オレ、彰のところに帰ってきた……♡」


彰の目が熱く揺れる。


「もう離さない」

「離さないで……♡」


互いの目を見つめながら、熱い吐息が重なる。

杏は恥ずかしそうに、けれど本気で囁いた。


「彰の赤ちゃん……欲しい」


彰の動きが一瞬止まる。

その目が、驚きと幸福で揺れた。


「ああ、たくさん欲しいな。五人ぐらい」

「え? そんなには無理だよ……!」


一瞬、二人は見つめ合う。

そして、思わず噴き出した。


「あははっ……彰、ほんと極端……♡」

「杏が言ったんだろ」


「五人とは言ってない!」


笑い合いながらも、互いの熱は冷めない。

彰は杏を強く抱きしめ、深く甘く重なった。


「あっ♡ 彰……♡」

「杏……これから、ずっと一緒だ」


「うん……♡」


奥を擦られるたび、杏の声が甘く揺れる。


「んっ♡ はぁ……♡ そこ、好き……♡」

「もっと声を聞かせろ」


「彰……♡ あっ♡ 好き……彰、好き……♡♡」


彰の腕の中で、杏は何度も甘く震えた。

深く満たされるたび、涙が滲む。


「彰……いっちゃう……♡ だめ……好きすぎて……♡♡」

「杏」


「はぁっ♡♡ 彰……♡」


最後は互いへしがみついたまま、二人同時に深い絶頂へ溶けていった。


「杏……愛してる」

「彰……オレも……♡」


絶頂の後、彰は杏を抱きしめたまま、優しく囁いた。


「これから、ずっと一緒にいよう。杏」


杏は彰の胸に顔を埋め、涙を滲ませながら頷いた。


「うん……ずっと、一緒に」


こうして、二人の本当の始まりが訪れた。




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