第9章 クリームパンと、永遠の朝
結婚から半年後。
大鷹グループが手掛けた最新高級レジデンスの最上階ペントハウスが、オレと彰の新居となった。
窓の外には、朝の光を浴びた街が広がっている。
高層階から見下ろす景色は、まだ少しだけ現実味がない。
けれど、キッチンに立つオレ——甘野杏の手元には、いつもの感触があった。
小麦粉。
発酵した生地。
甘いクリーム。
そして、オレがずっと追いかけてきた味。
一階には、オレがプロデュースした
『Crème de Amour』
がオープンしていた。
連日大行列。
朝から夕方まで、店の前には人が並び、焼き上がりの時間になると、甘い香りがエントランスまで届く。
元・ふあふあベーカリーの店長も、毎日のように買いに来ては、にこにこ笑ってくれる。
「杏くんのクリームパン、進化しすぎだよ!」
その言葉を聞くたび、胸が熱くなる。
あの日、雨宿りの部屋で高級菓子を食べながら口にした、まだ形にもなっていなかった夢。
ふあふあベーカリーで試作して、スイーツビュッフェでメモを取って、南の島でもクリームのことを考えて。
彰が覚えていてくれた約束。
全部が今、この店の甘い香りになっている。
オレはようやく、自分の味を見つけた。
そして、その隣には、いつも彰がいる。
****
朝の陽光が差し込むリビング。
オレは少し大きくなったお腹を優しく撫でながら、キッチンで新しいクリームパンの試作をしていた。
五ヶ月。
お腹は前よりもはっきり丸くなってきた。
手のひらを当てると、まだ小さな命がそこにいるのだと感じる。
不思議だ。
オレの中に、彰との子がいる。
そう思うだけで、胸の奥が甘く震える。
「……今日のクリーム、ちょっと軽めかな」
小さく呟いた瞬間。
後ろから、そっと抱きつかれた。
「杏」
「彰」
大鷹彰は、オレの背中へ頬を寄せるように抱きしめてくる。
結婚しても、彰の重さは変わらない。
むしろ、増した。
「今日も綺麗だ」
「彰、朝から甘いこと言わないでよ……照れる」
「照れてる顔も綺麗だ」
「もう……」
オレが笑うと、彰はオレのお腹へ両手を重ねた。
大きな手のひらが、ゆっくり円を描くように撫でる。
「杏……」
「ん?」
「ここに、俺の子がいるんだな」
その声が、少しだけ震えていた。
オレは彰の手に、自分の手を重ねる。
「うん」
彰はお腹へ顔を近づけ、そっと囁いた。
「おはよう」
その仕草があまりにも優しくて、胸が熱くなる。
「彰、もうパパの顔してる」
「当然だ」
「気が早いよ」
「早くていい。杏と子供のことなら、全部早く考えたい」
「重いパパだ♡」
「重くていい」
本当に、この人は変わらない。
でも、そんな彰が好きだ。
彰はオレのお腹を撫でながら、耳元で低く囁いた。
「もう、俺の子を孕んでるんだ。甘やかしたくなるに決まってるだろ」
「っ……彰、言い方……♡」
顔が一気に熱くなる。
彰はわざとみたいに、オレの耳へ唇を寄せた。
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……朝から心臓に悪い」
「それなら成功だ」
「何の成功?」
「杏を照れさせる作戦」
「そんな作戦いらない♡」
二人で笑っていると、オーブンから甘い香りが立ち上った。
オレは試作のクリームパンを取り出す。
彰がすぐ皿を用意してくれた。
「食べる?」
「ああ」
「ちゃんと感想言ってよ」
「杏が作ったなら全部うまい」
「そういうのじゃなくて!」
彰は少しだけ真面目な顔でパンを割り、クリームを見た。
一口食べる。
「……前より軽いな」
「分かる?」
「ああ。朝に食べやすい」
「本当?」
「本当だ。店に出せる」
オレは嬉しくなって、思わず笑った。
「やった」
彰はその笑顔を見て、少し目を細める。
「初めて会った雨の日、お前は高級菓子に目を輝かせていた」
「急にどうしたの」
「でも今は、お前が作ったクリームパンで、俺の朝が始まる」
胸が、きゅっと鳴った。
「彰……」
「幸せだ」
彰が当たり前みたいに言う。
その言葉に、涙が出そうになる。
オレはごまかすように、彰の口元へクリームパンを差し出した。
「じゃあ、これからも毎朝食べて」
「毎朝?」
「飽きる?」
「飽きるわけない」
彰はオレの手ごと、クリームパンへ軽く口を寄せた。
「杏の味だからな」
「もう……朝から甘すぎる」
「クリームパンより?」
「彰の方が甘い♡」
彰は低く笑い、オレとお腹をまとめて抱きしめた。
****
午後。
兄の蓮が訪ねてきた。
両手には、大量のベビー服と玩具。
しかも袋が多すぎる。
玄関を開けた瞬間、オレは目を丸くした。
「兄貴……それ全部?」
「ああ」
「気が早いよ、兄貴……まだ五ヶ月だよ?」
「早いに越したことはない。杏が産む子だからな」
蓮兄さんは当然のように言って、紙袋をソファへ並べた。
小さな靴下。
柔らかい肌着。
ぬいぐるみ。
まだ見ぬ子供のためのものが、次々出てくる。
オレは呆れながらも、少し嬉しくなった。
「兄貴、こんなに買ってどうするの」
「使うだろ」
「サイズとかあるんだけど?」
「全部買った」
「全部!?」
彰が横から低く呟く。
「……俺も買うつもりだった」
「彰まで?」
「当然だ」
蓮兄さんと彰が、妙に真剣な顔で向き合う。
オレは嫌な予感がした。
「待って。二人でベビー用品合戦しないで」
蓮兄さんは穏やかに笑った。
「していない」
彰も真顔で言う。
「していない」
「絶対してる顔!」
結婚してから、蓮兄さんと彰は奇妙な理解者同士になった。
最初はあんなに睨み合っていたのに、今ではオレの体調や店のことを、時々二人で真面目に相談している。
それはそれで、ちょっと恥ずかしい。
「杏、無理していないか」
蓮兄さんがオレのお腹を見て、珍しく柔らかい表情を浮かべた。
「うん。大丈夫」
「店に出すぎるなよ」
「分かってるって」
彰がすかさず言う。
「俺が見ています」
「ならいい」
「いや、オレの自由も少しは見て?」
二人が同時にオレを見る。
「無理だ」
「無理だな」
「息ぴったりじゃん!」
思わず笑うと、リビングの空気も柔らかくなった。
蓮兄さんはテーブルの上の試作クリームパンを見た。
「これが、新しい試作か」
「うん。朝向けに軽くしたやつ」
「食べていいか」
「もちろん」
蓮兄さんは一口食べて、少しだけ目を細めた。
「……母さんにも食べさせたい味だな」
その一言で、喉の奥が熱くなる。
「兄さん……」
「杏が本当にやりたかったことが、ちゃんと形になってる」
彰が隣で、静かにオレの肩を抱いた。
「まだまだ改良するよ」
「ああ。お前らしい」
蓮兄さんが笑う。
その顔を見て、オレはやっと、家族にも胸を張れる味へ近づけた気がした。
****
その後、大鷹優が自分の子供を連れて遊びに来た。
「杏くん、元気? 僕もようやく幸せになれたよ」
優は以前よりずっと穏やかな顔をしていた。
腕の中の子供が、オレのお腹を不思議そうに見ている。
「元気だよ。優さんも元気そう」
「うん。本当に、やっとね」
その言葉に、オレは胸が温かくなった。
昔、彰への想いで苦しそうだった優さん。
あの時の手紙を、オレは今でも覚えている。
今、こうして笑っている姿を見られて、本当によかったと思う。
優は手作りのお菓子を差し出した。
「これ、よかったら」
「ありがとう。オレもパン持って帰って」
「嬉しい。子供も杏くんのお店のパン、大好きなの」
「ほんと? やった」
彰は少し離れた場所から、その様子を静かに見ていた。
昔の嫉妬みたいな鋭さはない。
ただ、オレを見守っている顔だった。
優が彰を見て、少し笑う。
「彰、相変わらず杏くんを見る顔が重いね」
「普通だ」
「普通ではないかな」
「杏限定だ」
「はいはい」
オレは顔を赤くした。
「優さんまで言わないで……」
優はくすっと笑った。
「でも、幸せそうでよかった」
その言葉は、ちゃんと優さん自身にも向いている気がした。
****
そして、橘玄太は相変わらずだった。
「社長! 次は双子用のベビーカーを特注しましょうか~?」
彰の眉がぴくっと動く。
「うるさい、玄太」
「ですが、万が一に備えまして!」
「まだ一人だ」
「では、次回用に!」
「黙れ」
オレは思わず吹き出した。
「玄太さん、気が早すぎる」
「杏様と社長のお子様ですから! 備えは過剰なくらいがちょうどいいのです!」
「それ、彰と同じこと言ってる♡」
彰が嫌そうな顔をした。
「玄太と一緒にするな」
玄太は胸に手を当て、深々と頭を下げる。
「光栄でございます」
「褒めていない」
「存じております!」
オレは玄太を見て、しみじみ呟いた。
「でも玄太さん、今思うと全然“ただの手配担当”じゃなかったよね」
玄太が一瞬、ぴしっと姿勢を正した。
「杏様、私は初対面から執事の品格を隠しきれておりませんでした!」
「隠す気なかったでしょ。あの時、最初から大鷹家執事兼秘書って名乗ってたし」
「左様でございました!」
彰が深くため息をつく。
「隠せ」
「はい、社長!」
「もう隠す必要ないだろ」
「確かに!」
玄太の勢いに、蓮兄さんも優も少し笑った。
リビングに笑い声が広がる。
家族みたいな時間。
昔は想像もできなかった景色が、ここにあった。
****
夜。
寝室の大きな鏡の前に、オレたちは立っていた。
オレはバスローブを羽織ったまま、自分のお腹を見つめる。
五ヶ月になったお腹は、前よりはっきりと丸くなっていた。
嬉しい。
幸せ。
でも、少し恥ずかしい。
「……お腹、こんなに大きくなっちゃった」
後ろに立つ彰が、鏡越しにオレを見つめている。
その視線が熱い。
オレは小さく呟いた。
「でもオレ、彰に抱かれたい……」
彰の目が揺れた。
すぐに後ろから抱きしめられる。
「あ……」
彰の両手が、オレのお腹を優しく包む。
「気にしてるのか?」
「だって」
「綺麗だよ、杏」
低い声が、耳元に落ちる。
「妊娠したお前が、こんなに可愛いなんて……俺、毎日興奮してる」
「っ……彰……」
一気に顔が赤くなる。
鏡の中のオレは、照れて目を伏せていた。
「いいの……? お腹、邪魔じゃない……?」
彰は首を横に振る。
「邪魔なわけない」
「でも……」
「もちろん。妊娠した杏が、可愛くて抱きたくて仕方ない。ほら……」
彰はオレの手を取り、自分の前へ当てた。
とても熱い。
「ほら。嘘じゃない」
「……バカ。エッチな彰!」
「杏の前ではな」
「開き直った♡」
彰はオレのこめかみにキスした。
「優しくするから、ベッドに行こう」
「……うん」
****
ベッドの上。
彰はオレをゆっくり横たえた。
いつも以上に丁寧だった。
枕の位置を直して、背中にクッションを入れて、お腹に負担がかからないように何度も確認する。
「彰、そこまでしなくても」
「する」
「心配性」
「当然だ」
彰はオレのお腹へ何度もキスを落とした。
「杏……愛しい」
「ん……♡」
「お前も、俺の子も、全部愛しい」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
彰はオレの手を握り、ゆっくり深く抱きしめた。
肌と肌が重なって、熱がじんわり伝わってくる。
「あっ……♡」
深く、でも優しい。
身体の奥に、彰の熱がゆっくり満ちていくようだった。
「あっ♡ 彰……優しい……♡」
「無理するな」
「してない……気持ちいい……♡」
彰はオレを抱きしめながら、ゆっくり愛情を注いでくれた。
奥の方まで甘く響くたび、身体が小さく震える。
「あっ♡ ん、ぁ……♡ 彰……そこ……♡」
「苦しくないか」
「大丈夫……♡ 彰が優しいから……もっと欲しくなる……♡」
彰の目が、どうしようもなく甘くなる。
「杏」
「んっ……♡」
「ここに、俺たちの赤ちゃんがいるなんて……興奮が止まらない……」
「彰……言い方……♡」
恥ずかしいのに、嬉しい。
オレは彰の背中へ腕を回した。
「パパ達エッチでごめんね……まだ、愛し合っていたいから……」
言ってから、顔が熱くなる。
でも彰は、お腹に額を押し当てて、優しく囁いた。
「パパ達がずっと愛していくからね……待っててね」
その声があまりにも優しくて、涙が滲んだ。
「あっ♡ 彰……好き……♡」
「俺もだ」
彰はオレのお腹を撫でながら、何度もキスを落とした。
唇。
額。
頬。
そして、ふくらんだお腹。
全部を愛してくれる。
「あっ♡ んっ♡ 彰、奥……熱い……♡」
「杏も、この子も、全部大事にする」
「うん……彰の声、赤ちゃんにも聞こえてるかも……♡」
「なら、もっと言う」
彰はオレを包み込むように抱きしめた。
「愛してる、杏」
「んっ……♡」
「愛してる」
「彰……♡」
「ずっと、俺の家族だ」
その言葉に、涙が頬を伝った。
深く抱きしめられるたび、身体も心も満たされていく。
「あっ♡ あ、ぁ……♡ 彰……♡♡」
甘い声が止まらない。
彰の名前を呼ぶたび、彰の腕が少し強くなる。
「杏、可愛い」
「彰……だめ……好きすぎる……♡」
強すぎない。
でも、深い。
大事にされているのが、全部伝わってくる。
「あっ♡ いっ……♡ 彰……♡♡」
「杏」
「はぁっ♡♡ 彰、好き……♡」
最後は、彰に抱きしめられたまま、甘く深い熱に溶けていった。
彰もオレを包み込むように抱いたまま、熱い息を漏らす。
しばらく、二人で息を整える。
彰は汗で濡れたオレの額にキスを落とした。
「杏……これから、ずっと一緒にいよう」
その言葉に、胸が震えた。
オレは彰の頬に触れて、涙を浮かべながら笑う。
「うん……彰と、赤ちゃんと、三人で……ずっと幸せに」
彰はオレのお腹へ手を重ねた。
オレもその上に手を重ねる。
三人分の温もりが、そこにある気がした。
窓の外には、美しい夜景が広がっていた。
期限付きのはずだった恋は、永遠の家族になった。
オレと彰は、これからも、甘く、温かく、愛し合い続ける——。
そして明日の朝も、きっと。
彰は少し焦げ目のついたクリームパンを食べて、
「うまい」
と言う。
オレは
「ちゃんと感想言って」
と怒る。
お腹の子は、そんな声を聞きながら育っていく。
雨の日に始まった甘い嘘は、いつの間にか、家族の朝の味になっていた。
(クリームパンの甘い罠 〜期限付き同棲は甘すぎて困る〜 完)




