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第3章 ふあふあベーカリーの危機と、隠れCEOの暴走

朝のグラシアス・タワー1203号室。


キッチンには、焼きたてのトーストとコーヒーの香りが広がっていた。

オレ——甘野杏が皿を並べていると、背後から大きな身体がそっと近づいてきた。


「ん……杏、いい匂い……」


彰の低い声が、耳元で甘く響く。

次の瞬間、大きな腕がオレの腰へ回され、背中に熱い胸板がぴたりと密着した。


「彰、朝からまた……」

「また、何だ」


「くっつきすぎ」

「足りない」


「朝ごはん作ってるんだけど?」

「杏補給の方が先だ」


「なにそれ♡」


彰は答える代わりに、オレの首の後ろへ鼻を埋めた。

くん、と匂いを嗅がれる。


「……彰?」

「違う」


「何が?」

「これはパンの匂いじゃない。杏の匂いだ」


「……やだ、言うなってば」


照れて窘めると、彰はさらに首筋へ顔を押しつけてきた。

くすぐったくて、思わず肩が跳ねる。


「あっ、だめ……くすぐったい」

「我慢できない」


「何を?」

「お前が可愛すぎるのが悪い」


「またオレのせいにしてる……♡」


彰の唇が、オレの首筋に触れた。

ちゅ、と軽いキス。


それから、少し強く吸われる。


「んっ……♡ 彰、キスマークついちゃう……」

「つけてる」


「バイトの人にばれちゃうでしょ」

「ばれるようにつけてる」


彰の声が、少し低くなる。


「お前が俺のものだって、ちゃんと見せつける」

「バカ♡」


笑いながら彰の胸を軽く叩くと、彰はむしろ嬉しそうにオレを抱きしめた。


「バカでいい」

「よくないよ。朝ごはん冷める」


「あとでいい」

「彰、今日も仕事でしょ?」


「ある」

「遅刻するよ?」


「したことない」

「そういう問題じゃない♡」


彰はオレを軽々と抱き上げた。


「きゃっ……!」


そのままソファまで運ばれ、オレは彰の膝の上に座らされる。


「もう、ごはんは?」

「あとでいい……今は杏が食べたい」


「朝から言い方!」

「本音だ」


彰はオレの唇を奪った。

甘く、濃く、少し強引なキス。


「んっ……♡」


彰の舌が触れるたび、背中が甘く震える。

オレは窘めるつもりだったのに、気づけば彰の首に腕を回していた。


「彰……♡」

「杏」


彰の手が、オレの背中をゆっくり撫でる。

熱い掌が布越しに触れるだけで、身体の奥が甘くなる。


「はぁ……♡ 彰、朝から……」

「好きだ」


「急に言うなよ……♡」

「急じゃない。ずっと思ってる」


そういうところが、ずるい。

重いし、独占欲は強いし、朝から匂いを嗅いでくるし、キスマークをつけようとしてくる。


それなのに、好きだとまっすぐ言われると、オレは何も言えなくなる。

彰はオレの額へキスを落とした。


「今日も、店か」

「うん。昼はふあふあベーカリーで、夜はアカデミー」


「無理するな」

「してないよ」


「男に話しかけられたら?」

「またそれ?」


「報告」

「接客全部報告してたら大変だよ♡」


「なら、怪しいやつだけでいい」

「彰基準だと全員怪しいんじゃない?」


「否定はしない」

「してよ!」


オレが笑うと、彰は満足そうに目を細める。

そして、もう一度深くキスした。


「んっ♡ ふ、ぁ……♡」


朝から濃厚に甘やかされたことは、オレの乱れた髪と、首筋に残った薄い痕で明らかだった。


「もう……本当にエッチなんだから♡」

「杏のせいだ」


「そればっかり」

「事実だ」


彰は満足そうにオレの唇へ軽くキスをしてから、ようやく仕事へ出かけた。


****


その後、彰は黒塗りの車に乗り込み、表情を一瞬で切り替えた。

さっきまで杏に甘えていた男とは別人のように、鋭く冷たい目になる。


後部座席で軽装から高級スーツへ着替えながら、彰は短く言った。


「玄太、今日の午後も店の近くへ回せ」


運転席の橘玄太が、にこやかに返す。


「承知しました。杏様補給でございますね」

「黙れ」


「はい!」

「それと、父からの連絡は」


「本日朝にも催促が入っております。お見合いの件で、そろそろ返事をと」


彰の指が、ネクタイを締める途中で一瞬止まった。


「放っておけ」

「よろしいので?」


「よくはない」


低く言い捨てる。


「だが、今はそれどころじゃない」


玄太は余計な軽口を飲み込んだ。

彰の視線は、窓の外ではなく、まだ頭の中に残る杏の笑顔へ向かっていた。


****


大鷹グループ本社・最上階会議室。


「海外ファンドとの金利交渉は、こちらの提示した条件で確定させる」


彰の声は低く、鋭く、一切の隙がない。


「向こうが3%を要求してきたら、2.7%で折り合う。市長との都市計画会議は来週火曜日。事前資料は全て俺が確認済みだ」


資料をめくる音だけが響く。

彰はさらに続けた。


「ゼネコン各社との契約は、遅延ペナルティ条項を強化。曖昧な文言は削れ。……質問は?」


役員の一人が恐る恐る手を挙げた。


「しかし、ファンド側が強硬姿勢で……」


彰は即座に切った。


「交渉の主導権はこちらにある。向こうが引かないなら、代替ファンドを3社リストアップしてある。次」

「は、はい……!」


「感情で交渉するな。数字で詰めろ」

「承知しました」


部下たちは息を呑み、感嘆の眼差しを向ける。

冷徹で有能な大鷹グループの若きCEO。


それが、彰の普段の顔だった。

そんな彰のタブレットに、父からの短いメッセージが入る。


『相手方をいつまでも待たせるな』


彰は一瞥して、画面を伏せた。

今、考えたいのは見合いではない。


杏が今日も笑っているかどうか。

それだけだった。


****


十三時。

彰は帽子と眼鏡で変装し、ふあふあベーカリーの向かいのカフェへ入った。


窓際の席。

店内が見える、いつもの場所。


杏はエプロン姿で働いていた。


「いらっしゃいませ!」


明るい声。

柔らかな笑顔。


パンを包む細い指先。

彰はコーヒーを手にしたまま、じっと見つめる。


「……可愛い」


その時、店内で店長が杏に何かを差し出した。

小さな試作品らしい。


杏がそれを受け取り、真剣な顔で割っている。

唇にクリームが少しついて、慌てて指で拭う。


彰の目が細くなった。

パンの種類までは見えない。


けれど、杏が何かを一生懸命確かめていることだけは分かる。

店長が笑い、杏がぱっと嬉しそうな顔をした。


その笑顔に、彰の胸が柔らかくなる。

それからすぐに、先輩店員が杏の肩へ軽く触れた。


「杏くん、そっちのトレイお願い」

「はい!」


杏は笑顔で頷く。

ただそれだけのことなのに、彰の眉がぴくりと動いた。


「……触った」


スマホが震える。

玄太からだった。


『業務上の接触でございます。社長、カップを割らないでくださいませ』


彰は画面を睨む。


『近い』

『通常距離でございます』


『杏の肩に触る必要があるのか』

『パン屋ですので』


彰は低く舌打ちした。

その瞬間——。


店内に、空気の悪い男たちが三人入ってきた。

スーツ姿。


だが、まとっている雰囲気は明らかに普通ではない。


「店長よぉ、もう少し待ってくださいじゃねえだろ! 借金、いつ返す気だ!?」


店長が青ざめて、慌てて頭を下げる。


「も、もう少しだけ時間をください……! なんとかしますから……!」


店内の空気が一気に凍った。

客が怯えたように後ずさる。


杏も、トレイを持ったまま固まっていた。


「……」


彰の目が、一瞬で冷たくなる。

先輩店員が杏を庇うように前に出た。


「杏くん! 後ろに下がって!」

「あっ……」


男の一人が先輩を乱暴に突き飛ばした。

杏が不安げに後ずさる。


その顔を見た瞬間、彰の中で何かが静かに切れた。

怒鳴りはしない。


立ち上がりもしない。

だが、空気だけが凍る。


「……玄太」


電話をつなぐ声は、氷のようだった。


『はい』

「すぐに奴らの身元と店の借金状況を洗え」


『承知しました』

「全額把握して、即座に対処できる準備を整えろ」


『はい』


彰は店内から目を離さない。

杏が怖がっている。


その事実だけで、胸の奥に怒りが煮えたぎる。


「……二度と杏に近づけないように、徹底的に潰す」


玄太はいつもの軽口を消し、真顔の声で頷いた。


『了解です、社長』


彰は低く息を吐いた。


「あいつを怖がらせるな」


誰に向けた言葉でもない。

けれど、その声には揺るぎない怒りがあった。


****


その夜。

オレは不安げな顔でグラシアス・タワー1203号室へ帰宅した。


「ただいま……」


いつもなら、すぐに明るく言えるのに、今日は声が沈んでしまう。

彰はソファから立ち上がり、すぐオレを抱きしめた。


「おかえり、杏」


その声を聞いた瞬間、我慢していた不安が一気に溢れそうになった。

オレは彰の胸へ飛び込む。


「彰……」

「どうした」


「今日、店にヤクザみたいな人が来て……借金の取り立てだって」


彰の腕に、わずかに力が入る。


「……そうか」

「店長もすごく困ってて……オレ、首になるかもって……怖かったよ」


言っているうちに、声が震えた。

あの時の怖い空気。


怒鳴り声。

先輩が庇ってくれたこと。


店長の青ざめた顔。

そして、昼に店長が「昨日の試作、また少し良くなってたよ」と笑ってくれたこと。


あの場所がなくなったら、オレはどこであの味を追えばいいんだろう。

それが怖かった。


「今日ね、店長が、オレの試作を褒めてくれたんだ」

「試作?」


「うん。まだ全然だけど……いつか、自分の味を作りたくて。あの店で、ちょっとずつ試させてもらってて」


彰は黙って聞いていた。


「だから、店がなくなるかもって思ったら、すごく怖かった」

「杏」


彰はオレの背中をゆっくり撫でた。


「大丈夫だ。おいで……俺がいる」

「彰……」


「もう心配するな」

「でも、店がなくなったら……」


「杏」


彰はオレの頬へ触れ、真っ直ぐ見た。


「お前は、笑ってろ」

「そんな簡単に……」


「簡単じゃなくても、俺がそうさせる」


その言葉は、いつもの重い独占欲とは違っていた。

もっと静かで、もっと確かなものだった。


その時、オレのスマホが鳴った。

店長からだった。


慌てて通話を取る。


「はい、店長?」

『杏くん! すごいんだ! 借金が突然全部なくなって、大企業から資金援助の話まで来たよ! 店、潰れなくて済む!』


「え……?」


思わず彰を見る。

彰は何も言わない。


ただ、静かにオレを見ていた。


『本当に助かったよ! 杏くんも明日から普通に来てくれて大丈夫だから! 試作も、また続けよう!』

「はい……!」


電話を切ると、オレは一気に力が抜けた。


「彰……」

「どうした」


「すごいよ! 誰かが助けてくれたみたい! 首にならなくて済んだ! 試作も続けていいって!」


嬉しくて、オレは彰へ抱きついた。

彰は少しだけ目を細め、強く抱きしめ返す。


「よかったな」

「うん……本当によかった……!」


オレは気づかなかった。

彰の胸の奥で、彼が静かに思っていたことを。


この笑顔のためなら、俺はなんだってする。

少しして、オレはふと思い出したように言った。


「そういえば今日、店の近くに黒塗りの車が停まってたんだ」


彰の肩が、ほんの一瞬だけ固まった。


「……車?」

「うん。彰の仕事関係で使ってそうな車に似てた。ほら、VIP案件とかで来るやつ」


「……そうか」

「最近、意外と多いんだね、黒塗りの車って」


「都内だからな」

「そっか。オレ、最初見た時、彰が来てるのかと思っちゃった」


「俺が?」

「うん。でも、彰は仕事中だし。まさかね」


オレは笑った。

彰は一拍遅れて、低く答える。


「……そうだな。まさかな」


その声が少し硬かったことに、オレは気づかなかった。


****


その夜。

不安が解けた反動で、オレの気持ちは妙に高ぶっていた。


怖かった。

でも、助かった。


店も、仕事も、日常も、ちゃんと続く。

試作も続けられる。


その安心が、身体の奥で甘い熱に変わっていく。

ベッドの上で、オレは自分から彰へ抱きついた。


「杏?」


彰が少し驚いた顔をする。

オレは彰の胸へ顔を埋め、甘く囁いた。


「今日、怖かったから……彰が欲しくなった」


彰の目が熱くなる。


「……今日は、杏から来るのか」

「だめ?」


「だめなわけない」


オレは彰をベッドへ押し倒すようにして、深くキスした。


「んっ……♡」


彰の首筋へ唇を這わせると、彰の息が少し乱れる。

普段は余裕たっぷりの彰が、オレの仕草で乱れる。


それが嬉しくて、もっとしたくなる。


「杏……今日は激しいな」

「だって、気持ちが高ぶっちゃって……彰が欲しくて欲しくて仕方ないんだもん♡」


「……煽るな」

「煽ってるの♡」


オレは彰を見下ろし、わざと笑った。


「今日はオレが甘やかしてあげる」


彰が低く笑う。


「できるのか?」

「できるよ」


「すぐ俺に甘えるくせに」

「今日は違うの」


そう言いながらも、彰の手が腰に触れただけで身体が甘く震えた。


「あっ……♡」

「ほら」


「まだ負けてない♡」


オレは彰へ何度もキスを落とした。


唇。

頬。


首筋。

胸元。


彰が少し息を乱すたび、胸が甘くなる。


「彰……オレを見て」


彰は熱い目でオレを見た。


「見てる」

「もっと」


「ずっと見てる」


その言葉に、顔が熱くなる。

オレは彰に抱きしめられながら、ゆっくり深く重なった。


「あっ……♡」


奥まで満たされる熱に、身体が震える。


「彰……深い……♡」

「杏、大丈夫か」


「うん……気持ちいい……♡」


最初はオレが上にいるつもりだった。

なのに、彰の熱い視線と手の力だけで、すぐに甘く崩れてしまう。


「あっ♡ ん、ぁ……♡ 彰……♡」

「杏」


「まだ……まだオレがする……♡」

「可愛いな」


「言わないで……♡」


オレは彰の首に腕を回し、何度もキスをしながら、深く重なったまま甘い熱に揺れた。


「はぁっ♡ 彰、気持ちいい……もっと……奥に響く……♡」

「杏……」


彰の手がオレの腰を支える。

その支え方が優しくて、愛おしくて、胸がいっぱいになった。


けれど、やがて彰の我慢が限界を迎えた。


「……もう、我慢できねえ」

「え?」


次の瞬間、彰はオレを抱きしめたまま体勢を入れ替えた。


「きゃっ♡ 彰、急に……!」

「ここからは俺が甘やかす」


「さっきまでオレが……♡」

「十分可愛かった」


「可愛かったって言わないで……♡」


彰は深くキスをしながら、オレを包み込むように抱いた。

さっきまでより、ずっと強く。


でも、オレを怖がらせないように、大事に。


「あっ♡ 彰……♡」

「杏、俺を感じろ」


奥を深く擦られるたび、甘い震えが広がる。


「あっ♡ んっ♡ そこ……だめ……♡」

「今の声、覚えた」


「覚えなくていい……いや、よくないけど……♡」

「どっちだ」


「聞かないで……♡」


声が止まらない。

怖かった気持ちが、彰の熱で全部塗り替えられていく。


「あっ♡ あ、ぁ……♡ 彰……♡♡」

「杏」


「いっ……♡ 彰、だめ……気持ちよすぎる……♡♡」


彰はオレを強く抱きしめた。

最後は互いの名前を呼び合いながら、二人同時に甘い絶頂へ溶けていった。


「はぁっ♡♡ 彰……♡」

「杏……」


絶頂の余韻でオレがぐったりしていると、彰が満足そうに微笑んだ。


「たまにはいいな、これ……杏が甘やかしてくるの」


急に恥ずかしくなって、オレは彰の胸をぽかぽか叩いた。


「馬鹿♡」


彰は笑いながらオレを引き寄せ、濃厚なキスを浴びせてきた。


「んっ……♡」

「まだ足りないのか?」


彰が低く聞く。

オレは顔を真っ赤にしながら、それでも彰を見上げた。


「そうだよ、悪いか!♡」


彰の目が甘くなる。


「悪くない」


オレは彰にしがみつき、もう一度キスをした。

この夜は、特別に甘く、激しく、長いものになった。




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