178 ラ・ブ・ホの動揺
どちらにしても、トルニープのことが落ち着くまでは帰れないというか、帰るつもりはないんだから、ユータさんに話を聞いてゆっくりと準備を進めよう。
よし、気持ちを切り替えよう。
とにかく、トゥロンが生きていた、それだけで今日の私は世界で一番幸せ者なんだから……。
おやすみなさい。
ベッドに入り、目を瞑る。
……ああそういえば「グアルマキート戦記2巻」が結局なかなか読み進められないなぁ。
次の日、いつも通りに聖女の更新と炊き出しをスタート。
「なんか、今日のお姉さまいつもと違いますね?」
と、オーシェちゃんが女の勘を働かせていたのは全く知らなかった。
炊き出しの後を、皆に任せて人通りのない路地へ身を隠す。しばらく奥へと進むと、そこに求める人の姿があった。
手足が長くて、少し猫背。
茶色のツンツンヘアのその姿。
声は聞こえないけれど、口元が「女神」と動くのを見逃さない。
周りに他に人がいないのを確認して、歩きながら聖女のローブとベールを外し、小さく丸めてポケットから、スカートの中のカバンの中に押し込む。
そして、小走りで、トゥロンの胸に飛び込んだ。
「心臓の音、聞こえる……。本当に、生きてる……」
トゥロンの胸に耳を押し当てると、トクントクンという音に安心する。
「女神……」
トゥロンの戸惑う声に、ハッとして体を離す。
あわわっ、昨日に引き続き思わず抱きついてしまった。
「ご、ごめんね。なんだか、まだトゥロンが生きていたことが夢みたいで……あんな高いところから落ちたのに……」
谷川までは、高さ30メートル以上はゆうにはあっただろう。
「昔から、飛び込みは上手かったんですよ。着水時にコツがあるんです」
トゥロンは何でもないことのように、ウインク一つしてみせた。水泳競技の高飛び込みは10mくらいだよね?その何倍もあるのに……。しかも、肩に怪我を負った状態だったというのに。
「それにしても、女神、今日はいつにも増してお美しいですね」
え?
思わず顔が赤くなる。
ああそうか。いつも女神スタイルの時はノーメイクだった。ザ・スッピンってやつだ。
アラフォーのスッピンが美しいはずもなく凹。それに比べれば、今は正体隠しのためのちょっと派手めなメイクだ。とにかく、人は目元の印象で随分変わる。だから、なるべくスッピンから遠ざかるようにと、目元を強調してある。
「ちょうどいい」
何がちょうどいいんだろう?
「場所を変えましょう」
トゥロンの言葉に素直にうなずく。
なるべく人目に付かない裏路地を歩くこと20分ほど。
あれ?
え?
ここって……。
「女神、少しの間失礼します」
トゥロンがそう言って、親しげに私の肩を抱き寄せた。
トゥロンが私を連れてきた場所、とっても見覚えがある。
っていうか、毎日足を運んでる。っていうか、炊き出し開始前に来たばかりだ。
熊屋亭……。
トゥロンに肩を抱かれたまま、通い慣れた入り口をくぐる。
やだっ。心臓がバクバク言ってる。
何、緊張してるんだろう。……。そうだ、あれだ……。いつもは、私が率先して熊屋亭に入ってるけど、今日はトゥロンに促されてる。
別に、本来の目的で使用するわけではないけれど、でも、男性に連れられ「ラブホ」なんて……。ちょっと位ドキドキしたって仕方ないよね?
トゥロンは、慣れた足取りで1階の曲がりくねった通路を進み、奥の一室の前に立ち止まった。
そのまま入室せずに、ドアをノックする。
え?先客がいるの?どういうこと?
しばらくすると、ドアが開き、あの男が出てきた。
そう、何度も熊屋亭の前で見かけたあの男。茶色のツンツン頭の。
男は、トゥロンに軽くお辞儀をすると、すぐに去って行った。後姿を見送り、ポカーンとする私に、トゥロンが声を掛ける。
「似ていますか?」
似てる、似てる。後姿そっくり!何度もトゥロンかと思ってドッキリしてたんだもん。
勢い良く頷く私に、トゥロンが耳元で囁いた。
「影武者をしてもらっているんですよ。この辺りを中心に頻繁に出入りしてもらっています。だから、私が誰かに姿を見られても『いつものアイツ』だと思われるというわけで、誰も目に留めません」
ああ、確かに。私も最近では、後姿を見ただけで『いつものトゥロンに似た人だ』と、顔を確認しなかったもん。もしかして……何度か見かけた中で、あの男じゃなくてトゥロンがいたかもしれない?なんと、灯台下暗しだったなんて!まさか、同じ場所にいたかもしれないなんて!
トゥロンが部屋のドアを開け、私を部屋へとエスコート。
いつもルイスとして使用している2階の部屋よりも狭く、物も少ない。部屋の中には、大きめのベッド一つあるだけだ。洋服をかけるためのポールすら無い。
まさに、ソレだけのための部屋といった感じだ。
「女神、鍵をかけていただけますか?」
部屋の奥へと進んでいったトゥロンに言われ、ドアの鍵を閉める。
そ、そうだよね。
鍵くらい、かけるよね。
トゥロンに背を向け、ドアの鍵に手を伸ばしたら、またドキドキしてきた。
トゥロンとは、長いこと二人で旅してたから、二人きりで過ごす時間も多かった。宿に空が無くて同じ部屋に泊まったことだってあった。でも、全くドキドキするようなこと無かったのに、何で今日はこんなにあらぬ妄想してるんだろう。
ああ、そうだ。ここが「ラブホ」っていう特殊空間だからだ。
えーい、妄想よ、散れ、散れ!
「こちらへ、いらしていただけますか?」
妄想と格闘している私に、再び声が掛けられる。
こちらって、ベッドしかない、あちらのこと……。
ごくん。馬鹿な妄想で、変な顔になってないよね?今日はスッピンじゃないから、だ、大丈夫、だよね?
と、どぎまぎしながら振り返る。
あ、何?
本日「無職独身アラフォー女子の異世界奮闘記1巻」発売です。ありがとうございます。
次回更新は15日となります。しばらく、5の付く日と0の付く日更新です。(5日10日15日20日25日30日)今後ともよろしくお願いいたします。
12日と13日に別視点更新します。




