175 よかった
体を反転させ、男の正面に向き直ると、両手を広げて男の胸に抱きついた。
「この声は……女神……」
私のことを女神と呼ぶ、世界で一人だけの人。
「トゥロン……」
涙が止まらない。
嬉しくて、感激で、信じられなくて、打ち震えるほどの喜びをどうしていいのか分からず、ただ強くトゥロンを抱きしめる。
「トゥロン、トゥロン……」
生きてた。
生きてた。
トゥロンの胸の温かみ、聞こえてくる力強い鼓動。
ああ、本当に生きてるんだ。
涙が止まらない。この感情の高ぶりをどうしていいのか、さらにトゥロンを抱きしめる腕に力が入る。
トゥロンが私の背中に回した腕にも力が込められている。
「女神……ご無事でよかった……。街から忽然と姿を消したと知った時には……」
そうだ。私、誰にも見つからないようにとラトの元からこっそり姿を消したんだった。
トゥロンも、私が無事かどうかわからずに心配してくれていたんだ。
「ごめんね、連絡できなくて……」
「女神……。わたくしめの方こそ、あの状況を利用して姿を隠させてもらいました。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした……」
「謝らなくていいの。生きていてくれた、それだけでいいの……」
トゥロンの胸に押し付けるように頭をぐりぐりと横に振る。
ああ、ベールの下の化粧がすごいことになってそうだ。
「我が女神よ……」
そんな私の頭を、トゥロンの手が優しくなでる。
ああ、今の私、迷子の子供が親と会えて泣きじゃくっているみたいだね。とてもアラフォーの態度じゃないや……。
暖かいトゥロンの胸から、トクトクトクって規則正しい心臓の音が聞こえる。
生きてる。本当に、生きてるんだ。
嬉しい。
単純に、トゥロンが生きてたことが嬉しい。
不思議なことに、自分のせいで人が死ななくて良かったとか、そんな気持ち全く無い。
そうだ。死なないで欲しかった。大切な人が生きている。それに勝る幸せなんて無い。
人の声が近づいてくるのが聞こえ、慌ててトゥロンから身を離す。
やだ、まだ離れたくないよ。
でも、聖女が男と抱き合ってたなんて状況を見られていいはずが無い。
「お話したいことがあります、明日、お時間いただけませんか?」
トゥロンが早口で尋ねる。私は即座に頷き「明日、今日のような時間からでいいですか?」と問うと、トゥロンは「是」と短く答えて姿を消した。
ああ、あの背中。あの歩き方、アレがトゥロンだ。
本物のトゥロンだ。
明日、明日トゥロンに会える。
何を話そう。
いや、何を話さなければならないだろうか。
たくさん話すべき事がある。そして、たくさん確認しなければならない事もある。
王都で、私が正体を隠して何をしているのか……トゥロンは姿を隠して何をしているのか……。
人の話し声だけでなく、足音まで聞こえる距離に近づいてきた。慌てて路地を一つ曲がると、聖女服を脱ぎ捨てカバンに仕舞う。ベールの下の化粧を簡単に直し、熊屋亭に向かった。
「ルイス様、目が赤いようですがどうされましたか?」
ウルさんと合流後にすぐに言われた言葉。そりゃそうだよな。アレだけ泣いたら、目も赤くなるよね。
「化粧が目に入ってしまって……目立ちますか?」
と、ルイスメイクをしながら考えていたいい訳を使う。ウルさんは何の疑いもなく、頷いた。
「そうですね。寝不足ということにしましょう」
泣いたことを知られたくなかったのは、心配させたくなかったからじゃない。
何故泣いたのか理由を問われると困るからだ。
トゥロンのことをどう説明するべきか、どこまで話せばいいのか……。
仮にも、王弟という立場であるトゥロン。しかも、複雑な立場だ。そんな人物と会うことを、ウルさんがどう思うか……。
危険に近づくなという吾妻さんがどう思うか。
そもそも、トゥロンは今何をしているのか?身を隠していると言っていた。そして、王都は危険だと。
一体何をしようとしているのか、何を知っているのか。もしかして、戦争のことについても何か知っているかもしれない。
目を赤くして寝不足だと言ったのが功をそうしたのか、この日は、五人もの貴族のもとをまわる事が出来た。
お疲れでしょうからと、話を早めに切り上げてくれたのだ。
今日の情報としては、戦争が起きそうで恐れている一人。戦争が必ず起きると信じ、他国への亡命を考えている一人。その際、商人ルイスの荷に財産を紛れ込ませて運び出してくれないかとの相談を受けたので、本気だと思われる。
戦争は起きないから大丈夫だという者二人。そして、もう一人は戦争に関しては何も語らず。
得たものは、メイプルシロップと紙と香水の売り上げ、金貨二十枚。日本円にしておよそ二百万って考えると、すごいよね。
「分かりませんね」
反省会の前に、オーシェちゃんたちの帰りを待ちながらウルさんとお茶を飲む。
ウルさんは、珍しく耳の後ろを少し掻いて困った顔をしている。
「聞けば聞くほど、分からなくなる。こんなことは珍しいですよ。誰も嘘をついているように見えないし、混乱させるために情報操作しているようにも見えない。それなのに、戦争が起こるという意見と、起こらないという相反する意見が同じように出てくる。どのように判断してよいのか……」
多分、ウルさんは普段から何らかの情報収集の仕事もしているのだろう。そのウルさんが混乱するくらいだ。
一体何が真実なのか、さっぱり分からない。どうしてだろう。戦争という大事に関することなのに、情報がまとまらないのは。
オーシェちゃんたちが帰り、色々と話し合うこともあったが、私はすっかり上の空。
「お姉さま、お疲れのようですから、今日は早くおやすみになられたほうが……」
というオーシェちゃんの言葉に甘えることにする。
本当は、疲れているんじゃなくて、トゥロンのことで、気持ちがそわそわしてるせいで、集中力が無いんだけどね。
「ウルさん、明日、少し知り合いに会いに行きたいので貴族めぐりは中止させてください」
「分かりました。では、護衛を」
「いえ、一人で大丈夫ですから、ウルさんは配達班のルートの安全確保をお願いできますか?」
「本当に、大丈夫ですか?」
いつもの過保護ウルさんが顔を出す。
「お姉さま強いですものね!」
あのニンニン護身術のおかげで、オーシェちゃんの援護がある。
「大丈夫です。(スタンガンとか準備してあるし)」
安心させるために、にっこり笑って見せる。付いてこられては困るのよ。
「では、明日もよろしくお願いいたします」




