二十九
「硝子のようにもろく壊れるならば、俺は愛などいらない」
あまりの激しさに、リランは目を見張った。
もしかしたら、彼は愛する人に裏切られたことがあるのだろうか。
そうだとしたら、女性の心を弄ぶという非道さも合点がいった。
「――わたくしは、そうは思いませんわ。だれかを愛することは、とても素敵なことですわ。たとえ、それが悲しい結末だとしても」
「……」
「すべてを投げ出してもいいくらい想えるのが、愛ではなくて? あなたと出会って、わたくしは王女である身をどんなに嘆いたことか……。あなたに傷つけられて、どんなに心が痛んだか……」
リランは切なげに睫を震わせた。
「けれど、ロディアス様を愛したことを後悔いたしません。だって、あのときのわたくしにとって、あなたは本物の王子様でしたもの。たとえ、まやかしの優しさだとしても、わたくしはあのとき抱いた想いを否定しませんわ」
「愚かな女ですね。騙されたと知っても、そんな発言ができるなんて」
「そんな風に人の気持ちを軽んじないで下さいませっ。だれかを想う気持ちは、何よりも尊いものですわ。わたくしの大切な思い出まで、穢さないで下さいませ! あなたにそんな権利ありません。わたくしの想いは、わたくしだけのものです……っ」
思わず感情があふれ出たリランの目から涙がこぼれ落ちた。
儚くも美しい雫に、トルトック子爵が動揺したように目を泳がせた。
と、そのとき。
見張り兵が殺されていることに気づいたのか、廊下の外が騒がしくなった。
「リラン王女様、ご無事ですか!」
「くそっ、開かないぞっ」
トルトック子爵が、扉をなにかで塞いだのだろう。
叩く音が聞こえてくる。
チッと舌打ちしたトルトック子爵は、話しすぎたと悔やんでいるようだった。
「計画がめちゃくちゃだ。せっかく、ダーニャに王女殺しの罪をなすりつけようと考えていたのに」
「ロディアス様……」
「……なに、痛みなど一瞬です。苦しまず、神の御許へ逝かせてあげましょう」
剣を手にしたトルトック子爵が、ゆっくりと近づいてくる。
リランの頭が真っ白になった。
死ぬという恐怖が、足の先からはい上がってきて、体の震えが止まらなかった。
こんなところで、死にたくなかった。
せっかく、兄たちとも和解し、ユーシックも……。
(助けて、ユーシック……、兄様……っ)
届かないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
じりじりと後ろに下がったリランの背に、トンッと堅いものが当たった。
壁だ。
これ以上は下がれなかった。
「さあ、大人しく殺されて下さい。俺を破滅に導いた罰をその身に受けるがいい」
「……っ」
リランはとっさに駆けた。
ベランダへと続く窓を開く。
一気に風が部屋へと吹き込んできた。
「無駄ですよ。逃げ場などありません」
愉しげな笑みを浮かべたトルトック子爵が、ネズミを追い詰める猫のように一歩、また一歩と足を進める。
完全に逃げ場を失ったリランは、手すりに背を預け、固まった。
トルトック子爵が剣を振り上げるのをただ見つめるしかなかった。
「我が姫――!」
聞き慣れた声と共に、ふわりと抱きしめられた。
花のような甘酸っぱい香りが鼻をかすめていく。
「ユーシック……」
「ご無事でなによりです」
リランを背に庇ったユーシックは、突然現れた彼に驚いて手を止めたトルトック子爵の隙を突いた。
剣がぶつかり合う音が響き渡る。
「ぐぁ……っ」
鍛錬も積んでいないトルトック子爵など、ユーシックの相手ではなかった。
簡単に剣が弾け飛んだ。宙高くを舞った剣は、トルトック子爵の前髪をかすって落ちた。
「畏れ多くも、ブローデン国の第二王女を殺害しようとした罪は、重いですよ。その命を持って、罪をあがなうがいい」
怒りを押し殺しながらも、その双眸は殺気を放っていた。
そんなユーシックに気圧されたように、トルトック子爵が、がくりと膝をついた。
ちょうどそのとき、扉を壊したらしい兵士たちが駆け込んできた。
ユーシックは、彼らにトルトック子爵を連れて行くよう命じた。
敬礼した兵士たちは、トルトック子爵を乱暴に引っ立て、意識のないダーニャを運んでいった。
「怖い思いをさせてしまい申し訳ありません」
「ユーシック……」
震えるリランをユーシックがぎゅっと抱きしめた。
「こわ……怖かった……」
「ええ」
「もう、二度と会えないと思っていたわ。……助けてくれて、ありがとう」
体を離したユーシックは、睫に残った雫を指先ですくい取った。
顔を赤くするリランを柔らかな笑顔で見つめたユーシックは、耳元に顔を寄せた。
「主人の……」
危機にはせ参じるのは当然のことです、とユーシックが告げようとしたそのとき、
「リラン!」
大声が響き渡った。
「ああ、よかった。お前が無事で……」
現れたのはセルリックであった。
彼は、リランがユーシックの腕の中にいるのを見ると、不快そうに眉をあげて、我が物顔で横取りした。
いいところを邪魔されたユーシックがひくりと口の端を引きつらせたが、なにも言い返すことはなかった。
「セル兄様……」
「駆けつけるのが遅くなってごめんね」
「いいえ、こうしていらしてくれただけで十分ですわ」
くすぐったそうにはにかむリランを見て、セルリックが悶絶した。
「可愛い……! これが、ボクの理想の妹だよ。あのリランがこんなに素直に……ボクは夢を見ているのかな」
「セル兄様ったら」
リランは呆れはてた。
けれど、不思議と先ほどまでの恐怖心はどこかへ行っていた。




