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奇姫  作者: 桜ノ宮
29/33

二十九

「硝子のようにもろく壊れるならば、俺は愛などいらない」


 あまりの激しさに、リランは目を見張った。

 もしかしたら、彼は愛する人に裏切られたことがあるのだろうか。

 そうだとしたら、女性の心を弄ぶという非道さも合点がいった。


「――わたくしは、そうは思いませんわ。だれかを愛することは、とても素敵なことですわ。たとえ、それが悲しい結末だとしても」

「……」

「すべてを投げ出してもいいくらい想えるのが、愛ではなくて? あなたと出会って、わたくしは王女である身をどんなに嘆いたことか……。あなたに傷つけられて、どんなに心が痛んだか……」


 リランは切なげに睫を震わせた。


「けれど、ロディアス様を愛したことを後悔いたしません。だって、あのときのわたくしにとって、あなたは本物の王子様でしたもの。たとえ、まやかしの優しさだとしても、わたくしはあのとき抱いた想いを否定しませんわ」

「愚かな(ひと)ですね。騙されたと知っても、そんな発言ができるなんて」

「そんな風に人の気持ちを軽んじないで下さいませっ。だれかを想う気持ちは、何よりも尊いものですわ。わたくしの大切な思い出まで、穢さないで下さいませ! あなたにそんな権利ありません。わたくしの想いは、わたくしだけのものです……っ」


 思わず感情があふれ出たリランの目から涙がこぼれ落ちた。

 儚くも美しい雫に、トルトック子爵が動揺したように目を泳がせた。

 と、そのとき。

 見張り兵が殺されていることに気づいたのか、廊下の外が騒がしくなった。


「リラン王女様、ご無事ですか!」

「くそっ、開かないぞっ」


 トルトック子爵が、扉をなにかで塞いだのだろう。

 叩く音が聞こえてくる。

 チッと舌打ちしたトルトック子爵は、話しすぎたと悔やんでいるようだった。


「計画がめちゃくちゃだ。せっかく、ダーニャに王女殺しの罪をなすりつけようと考えていたのに」

「ロディアス様……」

「……なに、痛みなど一瞬です。苦しまず、神の御許へ逝かせてあげましょう」


 剣を手にしたトルトック子爵が、ゆっくりと近づいてくる。

 リランの頭が真っ白になった。

 死ぬという恐怖が、足の先からはい上がってきて、体の震えが止まらなかった。

 こんなところで、死にたくなかった。

 せっかく、兄たちとも和解し、ユーシックも……。


(助けて、ユーシック……、兄様……っ)


 届かないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。

 じりじりと後ろに下がったリランの背に、トンッと堅いものが当たった。

 壁だ。

 これ以上は下がれなかった。


「さあ、大人しく殺されて下さい。俺を破滅に導いた罰をその身に受けるがいい」

「……っ」


 リランはとっさに駆けた。

 ベランダへと続く窓を開く。

 一気に風が部屋へと吹き込んできた。


「無駄ですよ。逃げ場などありません」


 愉しげな笑みを浮かべたトルトック子爵が、ネズミを追い詰める猫のように一歩、また一歩と足を進める。

 完全に逃げ場を失ったリランは、手すりに背を預け、固まった。

 トルトック子爵が剣を振り上げるのをただ見つめるしかなかった。


「我が姫――!」


 聞き慣れた声と共に、ふわりと抱きしめられた。

 花のような甘酸っぱい香りが鼻をかすめていく。


「ユーシック……」

「ご無事でなによりです」


 リランを背に庇ったユーシックは、突然現れた彼に驚いて手を止めたトルトック子爵の隙を突いた。

 剣がぶつかり合う音が響き渡る。


「ぐぁ……っ」


 鍛錬も積んでいないトルトック子爵など、ユーシックの相手ではなかった。

 簡単に剣が弾け飛んだ。宙高くを舞った剣は、トルトック子爵の前髪をかすって落ちた。


「畏れ多くも、ブローデン国の第二王女を殺害しようとした罪は、重いですよ。その命を持って、罪をあがなうがいい」


 怒りを押し殺しながらも、その双眸は殺気を放っていた。

 そんなユーシックに気圧されたように、トルトック子爵が、がくりと膝をついた。

 ちょうどそのとき、扉を壊したらしい兵士たちが駆け込んできた。

 ユーシックは、彼らにトルトック子爵を連れて行くよう命じた。

 敬礼した兵士たちは、トルトック子爵を乱暴に引っ立て、意識のないダーニャを運んでいった。


「怖い思いをさせてしまい申し訳ありません」

「ユーシック……」


 震えるリランをユーシックがぎゅっと抱きしめた。


「こわ……怖かった……」

「ええ」

「もう、二度と会えないと思っていたわ。……助けてくれて、ありがとう」


 体を離したユーシックは、睫に残った雫を指先ですくい取った。

 顔を赤くするリランを柔らかな笑顔で見つめたユーシックは、耳元に顔を寄せた。


「主人の……」


 危機にはせ参じるのは当然のことです、とユーシックが告げようとしたそのとき、


「リラン!」


 大声が響き渡った。


「ああ、よかった。お前が無事で……」


 現れたのはセルリックであった。

 彼は、リランがユーシックの腕の中にいるのを見ると、不快そうに眉をあげて、我が物顔で横取りした。

 いいところを邪魔されたユーシックがひくりと口の端を引きつらせたが、なにも言い返すことはなかった。


「セル兄様……」

「駆けつけるのが遅くなってごめんね」

「いいえ、こうしていらしてくれただけで十分ですわ」


 くすぐったそうにはにかむリランを見て、セルリックが悶絶した。


「可愛い……! これが、ボクの理想の妹だよ。あのリランがこんなに素直に……ボクは夢を見ているのかな」

「セル兄様ったら」


 リランは呆れはてた。

 けれど、不思議と先ほどまでの恐怖心はどこかへ行っていた。




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