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奇姫  作者: 桜ノ宮
28/33

二十八

 リランが自室へ戻ったのは、空が白みはじめた頃であった。

 体は鉛のように重かったが、気分はまだ高揚としていた。

 煌びやかに着飾った人たち。

 むせ返るような香水の匂い。

 豪華絢爛な大広間……。


 まるで光の洪水の中に迷い込んだかのようだった。

 半月の間に、いろいろな屋敷を訪ねたが、やはり宮殿で開かれる舞踏会には敵わない。

 夢見心地で、ふぅっと熱い吐息を吐き出したリランは、コトンッという小さな音を拾って振り返った。


「……ダーニャ?」


 そこにいたのは、怯えた顔をした年若い侍女であった。


「ひめ、さま……」

「どうしたの?」

「お、お逃げ……ぅっ」

「!」


 ダーニャが崩れ落ちた後ろに立っていたのは、逃げ帰ったはずのトルトック子爵であった。影になって見えなかったが、ダーニャとともに部屋に入り込んでいたのだろう。

 首に手刀をくらわせ気を失わせたトルトック子爵は、ぴくりとも動かないダーニャの体を長い足でまたぐと、固まっているリランに近づいた。


「ぁ……」

「死んではいませんよ、まだ、ね」


 くつりと喉の奥で嗤うトルトック子爵。

 爽やかで優しかった頃の面影はどこにもない。

 蝋燭の炎に照らされる彼の顔は、暗く、どこか狂気に満ちていた。


「わたくしに、何用です」


 こくりと唾を呑み込んだリランが、震えそうになるのを堪えながら、毅然と言い放つ。

 すると、トルトック子爵がおかしげに嗤った。


「あれだけ俺をこけにし、ずいぶんと気持ちがよかったでしょう。あなたの気持ちを弄んだ俺への仕返しですか? 顔に似合わず恐ろしい人だ。俺はもはや社交界に居場所がなくなってしまった。陛下の不興を買った以上、未来は閉ざされたと同じ」

「……」

「リラン姫、あなたが代々続いたハルバート家を潰すのです。俺と妹の人生もこれで終わりだ。まったく、あっけないものだ。せっかく貴族の仲間入りをしたというのに……ああ、騒いでも無駄ですよ」


 トルトック子爵は、腰に刺さった剣をするりと抜いた。

 刀身からは、赤黒い血が滴っていた。

 それだけで、見張りの兵が殺されたことを悟ったリランは、顔色を真っ青にした。

 彼は、鋭く尖った剣先をうつ伏せに倒れているダーニャに向けた。


「忌々しい女め。使い道がまだあると思って情けをかけてやれば、この俺を売るとはな。だが、俺が捕まるわけがない! 俺は潔白なのだ! クッ…、ハハハッ!」


 トルトック子爵の声が低く、荒々しくなった。

 豹変したトルトック子爵にびくりと体を震わせたリランは、必死に考えを巡らせた。

 このままでは、ダーニャも自分も殺されてしまう。

 ごくりと唾を呑み込んだリランは、声が震えないように静かに語りかけた。


「なぜ、このような暴挙に? わたくしたちの命を奪っても、あなたの名誉は回復しないでしょう」

「そんなことはわかっていますよ」

「ならば、なぜ……」

「公然の場でこの俺に恥を掻かせた上に、屈辱と苦痛を与えたのですよ。死を持って償うのが当然でしょう。……くっ、さすが奇姫。姿はいくら変わっても、愚かなところは変わらない。弄ばれていると知らず、無邪気に俺を慕っている様は、なんと滑稽だったか! 酒の肴にはちょうどよかったですよ」


 トルトック子爵が愉悦を滲ませそう言い放つと、リランは傷ついたように睫を伏せた。


「あなたもしょせん女。市井の娘と変わらないですね。俺の言葉に一喜一憂し、媚びた眼差しを向けてきて……。たとえ奇姫とはいえ、この国の王女を翻弄するのは愉しかったですよ。専属騎士も手に入ったし、俺は、宮廷の寵児となることができた。ああ、そのことには感謝しましょう。一時とはいえ、下級貴族の俺が、社交界を掌握したのですから」

「――あなたは、可哀想な方です」


 顔を上げたリランは、悲しげに呟いた。

 あんなにも輝いていたトルトック子爵の姿が、急激に色あせていく。

 いくら上辺を取りつくろっても、性根の醜さは自然と浮き出てくるのだろう。

 暗く濁った彼の目は、もはや昔憧れた物語の中の王子様ではなかった。


「なんです、その目は。俺を憐れんでいるんですか?」


 トルトック子爵は、不快そうに鼻を鳴らした。


「心なんて手に入れるのは、簡単ですよ。それこそ、赤子の首を捻るものよりね。ああ、お綺麗なところでのうのうと過ごしていたあなたにはわからないでしょうね」

「え?」

「成り上がりの新興貴族が、貴族の仲間入りをするのがどれほど大変か。爵位は金で買えても、血まで買うことはできない。どれほど宮廷人らしく振る舞おうと、彼らが俺を見る目には、侮蔑があった」


 トルトック子爵の口元が過去を思い起こしてか、皮肉るように歪んだ。


「俺が生き抜くには、後ろ盾が必要だったんですよ。幸い、俺は容姿に恵まれていましたからね。女など、しょせん顔がよければ、貴族であろうがなかろうが、騙されてくれるんですよ。甘い言葉を耳元で囁けば、俺に落ちない女などいないでしょ? 俺は、そうやって今の地位を築いたんですよ」

「あなたは、愛することも、愛されることも知らないのですね」


 リランは、じっとトルトック子爵を見つめた。

 きっと、これまでどんな苦難を経て、トルトック子爵が生きてきたかなんて、リランには考えも及ばないだろう。

 けれど、人の心を軽々しく扱う彼が、痛々しく見えた。

 もし、リランが提督から惜しみない愛情をもらわなければ、リランも愛に気づくことはなかっただろう。


「愛? それがなんです。愛など、いつかは壊れるもの」


 トルトック子爵の双眸が憎悪に染まる。


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