十二
「――私に、それを承諾しろとおっしゃるんですね」
その瞬間、ユーシックの顔から表情が消えた。
いつになく堅い声音が、彼の心情を表しているようだった。
連日に及ぶ貴族たちの熱心な誘いを振り切り、これでリランの専属騎士になれると勇んでやって来たユーシックにとって、寝言に水だっただろう。
自室の椅子に優雅に腰掛けていたリランは、目の前に立つユーシックを見上げた。
「わたしの頼みなら聞いてくれるでしょ? あなたが仕えたいと思った主人が、そう望んでいるのよ。忠誠心あふれる臣下なら嬉々として頷くところだわ」
リランはにっこりと微笑んだ。
トルトック子爵の願いを叶えるためにリランがとった行動は素早かった。
トルトック子爵と心を通じ合わせたリランは、いつになく晴れやかな顔でユーシックに彼の妹の専属騎士になるよう命じたのだ。
今、リランの頭を占めているのは、愛しいトルトック子爵のことだけ。彼に愛されているという歓びが、リランの胸を弾ませていた。
「貴女は、非道な方ですね。私の気持ちをちっとも理解して下さらない」
「え……?」
「いいでしょう。それを貴女が望むのならば。私は貴女の駒。楯にすらなれなかった名ばかりの騎士に、真実の主は不要」
「ユー、シック……?」
ようやくリランも彼の様子がいつもと違うことに気づいた。
あんなにもリランを熱く見つめていた瞳が、今は冷たく見えた。氷のように凍てついた視線からは、温度を感じなかった。
愛想をつかしたように、または失望したような顔を一瞬で、無表情の仮面の下に覆い隠した彼は、静かに跪いた。
「ユーシック・ドランゴ・ドゥオラン。我が姫の命により、トルトック子爵の妹君にこの身を捧げましょう」
「……っ」
あっさりと承諾したユーシックに、ずきんと胸が痛んだ。
そう仕組んだのはリランだというのに、もう用はないとばかりに去っていくユーシックに「待って」とすがりそうになった。
パタンと静かに扉が閉まる。
それをリランは呆然と聞いていた。
(どうして、苦しいの……?)
これで王子様との約束が果たせたというのに。
胸がちくちくと痛んでしょうがなかった。
罪悪感だろうか?
優勝したら専属騎士にするという約束を反故にしたから。けれど元々、リランは専属騎士を欲してはいない。あれは無理だろうと思って提案したことだ。まさか優勝するなんてだれも思わないだろう。
だからトルトック子爵の申し出は、渡りに船だった。
それなのに、今は、ユーシックに語っていたときのような高揚感は消えていた。どこか虚しさがこみ上げてくる。
王子様の願いを叶えられて嬉しいはずなのに……。
「まあまあ、幼子のように……。困った姫様ですね」
扉の横に控えていた侍女がそっと近づいてきた。
彼女は、麻のハンカチをそっとリランの顔に押し当てた。
「ぁ……」
ようやくリランも、自分が泣いていたことに気づいた。
とめどなく溢れる透明な雫が、ハンカチに吸い込まれていく。
いつもは呆れたような目しかしていない侍女も、今だけは優しげだった。癇癪を起こした子供を慰めるように、慈愛深い眼差しをリランへと注ぐ。
「あまり泣くと、化粧が落ちてしまいますよ」
「! それはダメよ」
リランは慌てて鏡へと向かった。
いつもの調子を取り戻したリランを年長の侍女は穏やかな顔で見つめていた。まるで我が子を見守る母のような眼差しだった。
「それはそうと、姫様。提督にお会いしなくてよろしいのですか?」
「そうね、そうだったわ。大事なことをなぜ忘れていたのかしら。ユーシックのせいね。わたしの心をいたずらにかき乱すから。ドゥオラン殿と大違いだわ。ドゥオラン殿は海のように広く、わたしを包み込んでくれたもの」
分厚く白粉を塗り、目の周りに青色の縁を入れたリランは、鏡に映った完璧な自分を満足げに眺めた。
けれど、瞳にはいつものきらめきはなかった。
少しだけ翳っているのは、決してユーシックのせいではない。提督がリランの元から離れてしまうからだ。
(せっかく、空白だった時間の分まで取り戻せると思ったのに……)
この国の平穏を任されている提督が、そう長く海を離れていることができないのは理解している。
でも、嫌なのだ。
もっとずっと一緒にいたかった……。
リランは、この日のために用意した箱を手に取ると部屋を出た。その後ろからは侍女が静かについてきた。
珍しく奇抜な格好に眉を潜めないのは、リランの心情を慮ってだろうか。
「ドゥオラン殿!」
「元気ですな、姫様」
侍従に指示を出して荷物を運び出していた提督は振り返ると、目尻に柔らかな皺を刻んだ。
「ちっとも元気ではないです。あなたを留めておけるのならば、陛下にだってケンカを売るのに」
「ははっ、なんとも剣呑なお話しですな」
「本気ですわ! ……海はそんなにいいものなのですか?」
「この地に生まれた男ならば、だれしも海原を翔る夢を見るものです」
「そう……」
リランは不満そうに唇を尖らせた。
「いつの日か、姫様に私の船に乗っていただきたいものですな。航海すれば、貴女もきっと海の魅力に取り憑かれるでしょう」
「兄様方がお許しになりません」
「過保護でいらっしゃいますからな」
「ドゥオラン殿はときおり、おかしな物言いをするのですね」
「そうですかな。愛情というのは、時にわかりにくいものですぞ」
笑みを深めた提督に、わからないとばかりに首を振ったリランは、手に持っていた箱を渡した。
「わたしを忘れないで」
「もちろんです。これまでだって、姫様のことを片時も忘れたりしておりませんぞ」
開けても? という提督に頷くと、彼は節だった手で紐を解いていく。
「これは……」
「あなたのめに、いっぱい作りました。わたしには、それしか出来ませんから」
本当は、刺繍でも出来たらハンカチに彩りを添えることもできたのだろう。
けれどあいにくとリランの得意分野は押し花を作ることだけだ。
季節毎の花を小さな額の中に閉じこめて、四季を表現してみた。
海には花がないから、少しでも目の保養になればと願って。
「ありがとうございます」
瞠目した提督は、心底嬉しそうに破顔した。
「さっそく戻ったら部屋に飾りましょう」
「わたしも、これまで、ドゥオラン殿からいただいた押し花をすべて部屋に飾っていますの。珍しい花ばかりだから、まるで異国の地を巡った心地にさせてくれるのです。また、お戻りになったら、押し花を下さいね。楽しみにしています」
「押し花、ですか?」
はて? と小首を傾げる提督に、ユーシックから押し花を受け取った事実を告げると、彼は笑いだした。
「はっはっはっ、姫様、私ではありませぬ」
「え?」
「それは、ユーシックが作ったものです」
「!」
「まったく、可愛いことをしている。……姫様が覚えていらっしゃらないのも無理はない。あの子が訪れたのは両手にも満たない回数でしたからな」
まるで、ユーシックとリランが以前会ったことがあるような口ぶりだ。
けれどリランにはそんな記憶なかった。
「姫様、ユーシックは不肖の息子ですが、貴女に対する忠誠心は人一倍強い。あれは各地を旅し、いつか仕える貴女を想い、腕を磨いてきたのです。幼き頃の誓いを胸に秘めたまま。もちろん、姫様に選ぶ権利がある。けれど、姫様。あれは使える男ですぞ。側に置いて損はないかと」
リランは大好きな提督の話を半分も聞いていなかった。
頭にちらつくのは、ユーシックの強い目だった。




