その2、描画
「ただいま」
「…………」
「どうした。馬鹿みたいな顔をしてるな」
「……きみが外から帰ってくるって状況が珍しすぎて、ちょっとね? おかえり」
「なるほどな、わからんでもない。とりあえずそこをどいてくれ。荷物が大量にあるんだ、部屋に運ばなければ」
「手伝おうか?」
「そうしてくれるとありがたい」
「おっけ。ん、結構重いな。何買ってきたの?」
「画材道具の類だ。絵の具、筆、画用紙、その他」
「画材道具? ってことは、絵描くの?」
「描いたら駄目か?」
「いやいやそんなことは」
「そうか。じゃあ早いところ運んでくれ。生ものも入っているから気をつけてな」
「うん、了解……生もの?」
*****
絵を描いたのはもう何年ぶりになるだろうか。中学、高校では美術部に所属していたが、当時はあまりまともな絵を描いていなかったような気がする。せいぜいコンクールに出した作品くらいしか人に見せられるものがない。言い訳するようでなんだが、これは私が不真面目だったというわけではなく、様々な業務に追われて絵を描く時間が少なすぎたからだった。
おかげで私の学生時代の記憶というものはたいていが急いでいるシーンだ。スピードのある学校生活の中で得た教訓や自信などはいまだに無くしてはいないと思うが、逆に形に残るような何かというものはあまり覚えていない。この辺は日記のはじめの方にも書いておいた。やはり思い出というものはいまだによくわからない。
手始めにリンゴの模写をやってみた。画用紙と鉛筆を使った白黒のデッサンだ。昔と比べると(当然のことだろうが)力が劣っている。かつては綺麗に引けていた線が今はどうもがたがたとしてしまう。描き始めて三十分もすると、ある程度コツが戻ってきていい具合に線がまとまるようになった。滑らかに曲線を描くのが私の趣味だ……趣味? 特技か? まあこの際なんでもいいか。
リンゴの赤みの濃さを表現するために陰を細かくつけていく。私はあまり濃ゆくはしないのだが、どちらかというとより濃い陰にした方が綺麗に見えるのだそうだ。試しに以前よりも濃い目に塗ってみたが、私にはあまり合わなさそうなのでやめた。
一通り絵が完成したので、また新しいモデルを探すことにした。部屋に置いてあったさまざまな日用品を手にとり、その造形を観察する。プラスチックの洗濯バサミのぎざぎざになっている部分や、タオルの表面のざらざらした質感、ただ見るだけではわからない感覚もとりあえず把握しておく。必ずしも役に立つとは言えないが、時折表現の仕方に迷ってしまったとき、こういった感覚がふと助けになることがある。何事も経験してみなければわからないというが、これもたぶんそれと似たようなものなのだろう。
次のモデルは何にしようか、と適当な図形を描きながら考えていたら彼に呼ばれた。そうかもうこんな時間か。久々にはまりすぎて時間が経つのをすっかり忘れていた。ということでとりあえず今日はここで筆をおいておく。続きはまた後日。
*****
「ずいぶんと捗ってたみたいだね」
「そうだな……私も驚いた。まだ基礎を少しつかみなおせた程度だが」
「そっか。そういえば昔は美術部だったもんねぇ」
「……君にそれを教えた覚えはないのだが」
「……まぁそれはいいとして」
「いいのか?」
「ご飯はどう? おいしい?」
「ん、まあまあだ。さすがにこの間のレストランの時よりはおいしさに欠けるが」
「そりゃあんた、高級料理店の味と比べられたらたまんねっすわ……」
「はは、わかっている。少なくとも愛情は店屋物以上だと言っておこう」
「どーもありがと」
「なぁ、何かいいものはないだろうか」
「なに? いいものって」
「絵のモデルになりそうなものだ。出来ればあまり複雑じゃない方がいい」
「それって、物じゃないとダメなの? たとえば風景とかは?」
「悪くはないが単純に時間がかかる。まずは基礎力を身につけなおすことから始めようと思ってな」
「なるほどねー……それじゃあれだ、ぼくがモデルになるとか」
「むっ、そうか人物画か! 悪くはないな。それじゃあさっそくだが私の部屋に来てくれ、今すぐに椅子を持って!」
「待てぇいまずはご飯を食べようぞよお姫様」
*****
彼の目。彼の鼻。彼の口。彼の皮膚。彼の髪の毛。彼の頬。彼の額。彼の耳。彼の肉。
ひとつひとつ、パーツを触り、観察し、出来上がったイメージの塊を画用紙の上に落としてみる。私は筆圧が弱いのでどうしても薄い絵になってしまうが、今回はそれが良い方向にはたらいている気がする。彼の儚げな印象が生身よりもさらに強まるからだろうか……それにしても相変わらず細い奴だ。こいつはきっと自分の体重なんてまったく気にしないんだろうな。腹が立ったがひとまず抑えておいた。
彼の体のパーツの配置はとても整っている。綺麗、というよりは精巧、という印象を受けるのだ。出来のいい人形を見たときのような感じがする。対して本人はそれなりに感情豊かな方だから、若干の矛盾を感じてしまう瞬間がたまにある。こんなことを彼に言ったら気を悪くするかもしれないな。本心だからなんともごまかせないのだが。
そういえば、彼のことをこんなにじっくりと見たのは久々だな、と思った。もともと他人にはあまり興味を持てなかった私だが、唯一彼についてだけはそれなりに関心を持ってきたつもりだ。まだ短い付き合いに過ぎないけれども、彼は私と一生懸命戦ってくれたし、精一杯背中を押してもくれた。彼は私にとって実に頼れる存在だと思う。
そんな彼に、少々酷なお願いをしてしまったと心のどこかで悔やんでしまうのは、やっぱり私が罪悪感というものを感じているからなのだろうか。
彼のことを第三者的に表現するのは初めてのことだったので、文面ではとりあえず『彼』と表現してはみたものの、別に彼を『彼』と呼ぶ必要はまったくなくて、無論『彼女』と呼んでしまっても問題はないし、もっと別の呼称、たとえば本名や愛称で呼んだとしても何も混乱は生じない。面と向かって話すときはもっぱら『君』と呼んでいる。これは単純に私が呼びやすいからという理由なだけだ。
彼は不思議な存在だ。常に中性的で、どちらか一方に定まるということがない。生物学的には定められるだろうが、見たり話したりしているだけではどちらがより適切なのか迷う。本人は自分のことを『ぼく』と言っているくらいだから男として見て欲しいのかもしれないが、私としてはむしろ女のような存在に思える。考えれば考えるほど変な奴だ。うぅむ。
彼の顔のデッサンを一通り終えると、その後はいろいろとポーズを取ってもらって次から次へと描き続けた。彼に対する私の想いを一筆一筆に込めつつ、丁寧に彼を描いていく。そこにあるのは憎しみ、悲しみ、妬み、悔しさ、怒り、それと……なんだろう。他には何があるのだろう。
強いて言うなら、ここには愛があるのかもしれない。残念ながら、愛というものが何なのか、私にはよくわからないのだが。




