2:各務の告白
青空を覆いつくす薄曇りのように、オレの心もモヤモヤとして晴れなかった。
昨日の日曜日は本当にいろんな意味で疲れた一日だった。
二週間の騎乗停止。過去に数度騎乗停止を食らったことはあったが、今回ほど落ち込んだ処分はない。
そしてダービーは惨敗。自分でもあそこまで降着の動揺を引きずるとは思わなかった。僅差での二番人気でありながら、結果は三着。だが先頭から三馬身も離されていては、惨敗としか言い様がない。完全にオレのミスだ。
怒りの感情は、もうない。ただただ、重くのしかかってくるような疲労感だけが心と身体を支配している。
むらさき賞で自分が斜行していた──裁決室でパトロールビデオを確認し、見間違うことのない証拠を突きつけられて、オレは自らが犯した大きな過ちに全身の血の気が引く思いがした。無理を承知で突っ込んでいくことはあったが、今回ばかりはそんなつもりは全くなかったんだ。
あの時、四コーナーで、オレにはただ前しか見えていなかった。後ろを気にする余裕が全くなかった。騎手として、最低限のことができていなかったんだ。
そして、それこそがアイツの本当の目的だった。
今となっても、何故あんなことが起きたのかわからない。だが、あの時確かに、オレには由佳里の背中が見えていた。まるで魔法にかかったかのように、あの日の残像をオレは見ていたんだ。
そんなオカルトな出来事が現実にあるはずがない。そうだ……あれはオレの深い後悔が作り出した、ただの幻影なんだ……
『かーがーみーさんっ! でぇとしましょー! 明日の月曜日、十時にトレセンの入り口で待っててくださいね。あ、そうそう……デートといったら、大っきな花束は欠かせないですよねー。カッコいいスーツ、ビシッと着て来てくださいねー』
突然、アイツの間の抜けた声が脳内で再生された。だが、不思議とそれほどムカついた気分にはならなかった。だるくて怒る気にもなれないといったところか。
この言葉にはかなり面食らったが、今更あれこれ文句を言ってもしょうがない。これは自分で蒔いた種だ。イヤでも最後まで付き合うのが道理というものだろう。そう思って、疲れた身体に鞭打ってここまで来たんだ。
トレセン入り口の前に止めた車の中で、後部座席に置いた大きな花束を振り返り、そしてオレはため息をついた。
アイツに出会ってから、どうも調子が狂うことばかりだ。
アイツはひとの世界に勝手に土足で上がりこんできて、派手にかき回していく。オレの気持ちも、周りの気持ちもお構い無しだ。
そんな傍若無人なヤツなのに、不思議とアイツの周りには笑顔が絶えない。
みんなバカにして笑ってるだけかもしれないが、ただそこにいるだけで皆を笑いの渦に巻き込むアイツは、他人と馴れ合うことを拒絶してきたオレとは対極の位置にいるようだ。
己の強さだけがものを言うこの世界──オレはそう信じてきた。強さだけが全て。負けることは生きる価値がないことと同じだ。オレは海外でそれを痛いほど思い知った。
それなのにアイツは……知恵も力もない、ただ情けと運だけで生き残ってるようなヤツに、オレは負けたというのか。
忘れようと思っていた悔しさがまたこみ上げてくる。
それを吐き出すかのように大きく息をついたその時、コンコンと窓をノックする音が聞こえてきた。顔を向けると、助手席側の窓の向こうにアイツ──早川萌黄のしつこいくらいの笑顔があった。
この笑顔を見るだけで、疲れがドッと増す気がする……仕方なく窓を開けてやると、特有の甲高い声が入り込んできた。
「お疲れ様ですー。乗ってもいいですか?」
オレが無言で頷いて見せると、早川はドアを開けて滑り込むように助手席に座った。
初めて見る、休日の私服姿。トレセン内ではいつもジャンパーに乗馬ズボンといういでたちだから、ノースリーブのシャツにミニスカートという姿がやけに新鮮に思える。ゆるく波打つ栗毛の髪も丁寧に梳かれ、ヘルメットや帽子をかぶっていることが多い仕事中とは印象が大きく異なった。
「各務さん、ちゃんと約束守ってくれたんですねー。馬に乗ってる姿もカッコイイけど、スーツ姿もキマってますねー」
全く、オレの気も知らないでぬけぬけと……こんな格好して待ってると、顔見知りが通るたびニヤニヤしてオレを物見していく。それだけでも苦痛なのに、コイツと一緒にいるところを見られて、下手なことを勘繰られるのは最悪だ。
行き先を聞くよりも早く、オレは車を出した。
「どこに行くんだ」
「そうですねー……デートと言ったらまずは映画でしょー!」
そう……それはまさに「デートという名の罰ゲーム」だった。
映画を見に行ったのはいいが、早川はどう見ても一人で食いきれない量のお菓子を両手一杯に持ち込み、少なくとも上映時間の半分過ぎたくらいの時には既に食べ終えて、周りを唖然とさせていた。しかも食べ物がなくなったその後は映画をよそに高いびきで寝始めるし、一緒にいたオレが一番恥ずかしくて、今すぐにでもコイツを置いて逃げ出したい気分だった。
映画が終わった途端起きたと思ったら、こともあろうに「お腹空いた」とかぬかしやがる。呆れながらも昼飯に連れて行くと、これまた想像を絶する量を一人で平らげやがった。見てるこっちが気分悪くなるほどの食いっぷりだ。大食漢ぶりはトレセンでも見ていたが、事情を知らない人間がこっちを見てクスクス笑うこの状況には、とてもじゃないが耐えられない。
ああもう、何もかも投げ出したい……コイツと一緒にいる一分一秒が苦痛だ。
オレが無視を決め込んでも、早川は意に介せず一人でしゃべりまくってる。とにかく早く終わらせたいオレの気持ちを逆なでするかのように、あっちに行きたい、こっちに行きたいと四方八方連れまわされ、いい加減ウンザリだ。
一体いつまで付き合えば気が済むんだ……
美浦に戻って、霞ヶ浦を一望できる公園に着いた頃には時刻は四時を回っていた。まだ四時……このまま夕飯までつき合わされるのかと思うと、本当に発狂しそうになる。一人上機嫌で歩いているアイツの背中を恨むように見つめても、アイツは気づくはずもなく、スキップしながら鼻歌なんか歌いだす始末だ。
今日は平日ということもあってか、公園は人影もまばらだ。ため息をつき、遥か遠くを見渡すと、霞ヶ浦の向こうに筑波山の輪郭が見えた。
不意に髪の毛をかき乱すような強い風が吹き付けてくる。湖畔に一人立って、波立つ湖面を見つめていると──ふと気づいた。
ここは……由佳里と来た場所だ。
彼女が叶わぬ夢を口にした、あの場所だ。
そんな大事な場所すら忘れていた自分に腹が立つ以上に、五年の月日の流れを強く感じた。
もう五年……まだ五年。目を閉じれば、あの日の彼女の言葉がくっきりと蘇ってくる──
『私、ダービージョッキーになりたいんだ』
たとえ彼女にその力がなかったとしても、彼女の夢を、未来を、オレが断ち切ってしまったことに対する免罪符にはならない。
オレはこの罪を一生背負って生きていく。赦されてはならない。
ダービーの前夜、オレは彼女に言ってはならない一言を言ってしまった。
オレは彼女を「殺した」んだ。
「各務さん」
オレを呼ぶ声はひどく落ち着いていて、とてもアイツの声とは思えなかった。
振り返ると、アイツは風に翻る髪とスカートを押さえつけながら、まっすぐな瞳でオレを射抜いていた。
「最後に行きたいところがあるんですけど、一緒に来てもらえますか?」
妙に改まった物言いに、オレは胸騒ぎを覚えた。
「ここは……!」
アイツに言われるままに車を向けたところ──そこは墓地だった。
そう、由佳里が眠る墓地だ。
「何のつもりだ!」
「あ、降りるとき、花束忘れないでくださいねー」
オレの罵声を無視して、早川は一人先に車を降りる。
由佳里の墓前に立ったことはオレ自身一度もない。その資格はないと、自分に言い聞かせてオレは今まで過ごしてきたんだ。
「……オレは帰るぞ」
その呟きにアイツはにこやかに振り返って、言った。
「まだデートは終わってませんよ」
……意外にしたたかなヤツだ。オレがここで何を言っても、もはや負け犬の遠吠えにしかならないだろう。
アイツにどう思われようと関係ない。無視して帰るのは簡単だ。だけど……
オレは後部座席の花束を振り返った。これは由佳里の墓前に供えるための花? 最初からオレをここに連れてくるつもりで?
何を考えているのか、何が目的なのか……お前がわからない。
オレが車を降りるまで見張っているとでもいうのか、早川はオレを見つめたまま動こうとしない。その笑顔が空恐ろしく感じた。
お前は何を知ってる? その笑顔の下に何を隠してるんだ?
見えざる力に動かされるように、オレは自らの手でドアを開け、車を降りていた。花束を抱えるとアイツは満足したように頷き、踵を返して先を歩き出した。
菩提寺に隣接する墓地だ。あまり大きくはない。様々な墓石が立ち並ぶ中を無言のまま進んでいくと、程なく人影が二つ見えた。
シゲさんと和弥だ。二人ともオレが来ることをわかっていたようで、特段驚いた顔はしていない。二人の前にある墓石──それが由佳里が眠る場所、青木家の墓所だった。
早川は墓石の前にひざまずくと手を合わせて目を閉じ、静かに黙祷をささげた。
「……どういうつもりだ」
静けさの中、オレがそう言うと、早川はおもむろに立ち上がり、微笑んでオレを見つめてきた。
「あのですね。由佳里さんときっぱりさっぱり別れてもらおうと思って」
……言ってる意味がよくわからない。
「だって、いつまでも前カノのこと引きずってたら、いつまでたっても私と付き合えないじゃないですかー。だから、今日ここでちゃんとお別れしてもらおうと思ったんですー」
そんなバカバカしい理由で……オレをここまで引きずり出したというのか?
「……ふざけるなっ!」
頭にきて、オレは持っていた花束を早川に思い切り叩きつけた。
色とりどりの花びらが千切れ、風に舞う。
花吹雪の向こうで、アイツは微動だにせず、オレだけをじっと見つめて視線を放そうとしない。
強く、鮮烈に──瞳の濃藍色は中に潜む闇のように見え、放つ光は闇を切り裂くナイフのようにオレの心臓を鋭く貫いてくる。動けなくなったのはオレのほうだった。
「各務、萌黄をあまり責めないでやってくれ。お前をここに連れてくるように、オレが頼んだようなもんなんだ」
その言葉に、驚いてシゲさんを見た。
よく見ると、シゲさんは喪服姿だった。黒いネクタイを締め、手には数珠を握っている。葬式のときに見たのと同じ格好だ。
「各務……オレはな、ずっとお前に謝りたかったんだ」
その言葉だけで十分だ。その先の話は聞きたくない。
「由佳里の葬式のとき、ケガを押してまで来てくれたお前を追い返してしまったこと……本当にすまなかったと思ってる」
何もかも聞きたくない。居たたまれなくなってシゲさんに背を向けたが、それでもなおシゲさんはその背中に向かって言葉を続けてきた。
「お前と由佳里のことは知ってたよ。だからこそオレは悔しかったんだ。こんな偶然があってたまるのかと。落馬した由佳里がお前の乗る馬に蹴られて死ぬなんていう偶然が……お前ら二人のことをわかっていたからこそ、やり場のない怒りをどこかにぶつけずにはいられなかった。お前を信頼していたからこそ……あの場で何も言わないお前にぶつけちまった」
何も言わなかったんじゃない。言うべき言葉がない。あの時は、ただそれだけだったんだ。
オレが由佳里を殺してしまったことは、紛れもない事実だ。それ以上でもそれ以下でもない。
立ち去ろうにもオレの前には早川が立ち塞がり、行く手を遮っている。
「オレがお前を変えてしまった。お前を追い込んで、全ての責任を押し付けてしまった……あれはただの事故だってわかってたのにな」
違う……あれは「ただの事故」なんかじゃない。
「お前の騎乗にミスはなかった。それは明らかなんだ。真後ろを走っていたお前が由佳里を避け切れなくても仕方のない状況だったんだ」
違う……違うんだ……
「各務……由佳里の墓に手を合わせてやってくれないか。お前が由佳里を殺したわけじゃない。お前が自分を責める必要なんてどこにもないんだ。だからもう……」
「違う!」
止めずにはいられなかった。
これ以上、シゲさんの懺悔を聞くことは耐えられなかった。
こみ上げてくる言葉を奥歯で噛み潰し、拳を握り締め、早川を押しのけてでも立ち去ろうと思った。が、アイツは手を広げてそれを押しとどめ、またも瞳の刃を突きつけてきた。
「──逃げるんですか?」
逃げる……だと?
違う。オレはその懺悔をされるに値しない人間なんだ。懺悔に報うことなど、オレにはできないんだ。
だがアイツは、胸に突きつけたその刃で、欺いてきたオレの本心を無理矢理えぐり出してきた。
「いつまで由佳里さんから逃げ続けるんですか?」
逃げ続ける? オレが? 由佳里から?
オレは逃げてなんかいない。
オレは由佳里を殺したんだ。彼女に会うことは許されないんだ。
由佳里はきっとオレを恨んでるに違いない。そんな彼女に今更どんな顔して会えと?
オレは逃げてなんかいない。逃げてなんか……
早川──その目でオレを見るな。その目に安らかな笑みを浮かべて、揺るぎない意志を宿して、オレを見つめるな。
お前のその目が大嫌いだ。
安穏とした中に誰よりも殺伐とした雰囲気を漂わせているその瞳を見るたびに……思い出す。薄れていた感情を、忘れていた鮮やかな色彩を。
いつもは無知丸出しで、呆けたように笑ってるだけなのに──それでいて全てを見透かすような濃藍色の瞳。魔力さえ漂うその光に囚われ、目を逸らせなくなる。
お前が何を知ってると言うんだ? オレに何を話せと?
「……お前に何がわかる? オレの気持ちも、由佳里の気持ちも、お前にはわからないだろう?」
風が止み、辺りが静まり返る。
早川は胸についていた深紅の花びらを摘み上げ、それを指で弄びながら言った。
「わかりませんねー。私は由佳里さんでも各務さんでもないですから」
真実さえも愚弄するかのような、軽い口調。
乗せられているとわかっていても、我慢ならなかった。
「そうだ……わかるはずない」
知った風な口を聞くな。
簡単そうに言うな。
お前には……お前には絶対わからない!
「五年前……事故の前夜。オレが由佳里に何を言ったか、お前は知らないはずだ。知らないヤツが……わかるはず……ない」
誰も知らない。父親であるシゲさんも知らない。
ダービーを翌日に控えたあの夜。二人だけで話したのはあれが最後だった。
「オレは由佳里に言ったんだ。『ダービーに勝つことができたら、結婚してほしい』と」
由佳里が死ぬ前日に、彼女にプロポーズしていたという事実。
早川の朗らかな笑顔が、あまりに愚かなオレをあざ笑うかのように思えてくる。
「そしてオレは……由佳里に言ってしまったんだ」
目を閉じれば今もハッキリと思い出せる──驚きと怒りが入り混じった彼女の美しい顔。
「『騎手を辞めてくれ』と」
後ろでシゲさんと和弥が息を呑むのがわかった。
恋人として、同じ騎手として、絶対に言ってはいけない一言。
あの時はそれがわからなかった。ただただ彼女を愛するあまり、失いたくないばかりに言ってしまった一言。
皮肉にも、そう告げた翌日に彼女はこの世を去った。
「由佳里は当然反発したよ。デビューしてまだ五年……なかなか勝ち星も上げられてなかったけど、身体中傷だらけになっても、ケガを繰り返しても、それでも由佳里は乗り続けた。一生懸命だった。だけどそんな彼女を……オレはそれ以上見ていられなかったんだ」
苦しい減量、そしてケガ。文字通り身を削ってまで乗っても、勝利はなかなか得られない。女というだけで正当な評価さえ与えられない。
そこまでして騎手を続けることに何の意味があるのか──その時のオレにはわからなかった。いや、わかろうとしなかった。
「ダービーの前、むらさき賞で由佳里と一緒になったとき──強がる彼女に騎手として引導を渡してやろうと思った。先頭切って逃げていく由佳里の後姿を見て……オレは必要以上にプレッシャーをかけてしまった。あそこまで彼女を追い込むことはなかったんだ。彼女を傷つけたくなかった、ただそれだけなのに……」
すぐ後ろでピッタリと張り付いているオレを見たときの、由佳里の驚いた顔。
人気馬でもないアスピルクエッタを単騎で逃がしたところで、その後オレがどれだけの不利を受けたと言うんだ? 彼女が逃げ切れたとして、それは実力があるという証拠であり、分の悪いレースに勝ったということはむしろ喜ばしいことだったじゃないか。
無理に競りかける必要なんてどこにもなかった。その『無理』を通したのは、単なるオレのエゴだったんだ。
「由佳里はオレが殺したんだ。騎手を引退させる──ただそれだけの理由で、オレは彼女を追い詰めた。あそこまで距離を詰めなければ、由佳里は落馬しても死ぬことはなかった──すべてはオレのせいなんだ。あれはただの『事故』なんかじゃない。オレが由佳里を殺したんだ!」
シゲさんの顔も、和弥の顔も見れず、そして早川のあの瞳からも逃げ出したくて、オレは墓石を正面から見据えた。
艶やかな黒御影石に映りこむ自分の姿。比較的新しい墓石の横にはただ一つ、由佳里の名と五年前の今日の日付が彫り込まれている。
今日は命日……気づいていたけど、知らないふりをしてきた。
由佳里に対して後悔と贖罪の念を抱いている──そんなふうには思われたくない。同情はいらない。侮蔑と嫌悪の視線を一身に浴びて生きていくのが、オレにお似合いの生き方だ。
「各務……それでも事実は事実だ」
シゲさんの冷たささえ感じる声が背後で響いた。
「お前の判断にミスはなかった。あそこで由佳里に競りかけたことも、落馬した由佳里を避けようと手綱を引いたことも馬を左に寄せたことも、お前と同じ騎手としての立場から見れば当然の判断だったんだ」
シゲさんが深く深く息をつく。
「オレだって、むらさき賞のビデオ何回見たかわからねぇよ。お前を憎めたらどんなに楽かって……お前に非がないか、ビデオを何度も何度も見返したさ。だけど……見れば見るほど、お前には非がないことしかわからなかった。あれは悪い偶然が重なった事故としか言い様がなかったんだよ──由佳里には運がなかった。ただそれだけなんだ」
運がなかった──そんな言葉で片付けたくない。
「だから各務……もう自分を赦してやれよ。今のお前は痛々しくて見てられねぇ。お前のためにも、由佳里のためにも……由佳里の愛した各務之哉に戻ってくれよ」
もう戻れない──今更後戻りなんてできるものか。
昔のオレは死んだんだ。彼女と一緒に。
どれだけの栄冠を掴もうとも、その輝きはオレに生きている実感を与えてくれない。その重みが教えてくれるのは、彼女の失われた命の重さだけだ。それを集めるために、オレは勝ち続けているのかもしれない。
何も言えず、黙りこんだオレを殴るように強い風が吹き付けた。木々のざわめく音がまるで陰口を叩くように、オレを責め立てる。
じり、と、誰かが砂利を踏みしめる音が聞こえた。
「アンタ……由佳ねーちゃんにウソついただろ」
何を言い出すのか……そう言いかけて、言葉の主に、その意味にギョッとした。




