1:和弥の哀歓
『お知らせ致します。東京競馬第九レースは、最後の直線走路で八番タカラノヤマ号の進路が狭くなったことについて審議を致します。お持ちの投票券は勝ち馬が確定するまで、お捨てにならないようお願い致します』
後検量室に戻ると、萌黄と各務さんと、そしてもう一人、関西から来ていた中堅の騎手が裁決室に呼ばれた。
一体何があったんだ?
場内ではむらさき賞の一部始終を写した映像が繰り返し流されている。モニターに映し出されるその映像を、オレは他の騎手をかき分けて食い入るように見つめた。
問題のシーンは四コーナー出口らしい。
内ラチに沿って先頭を行くラブリーウィッチと、すぐ後ろを走るレールフレックス。そのまたすぐ後ろに後続馬が横並びになって押し寄せている。
各務さんがムチを取り出し、一発入れる。手綱をさばいて萌黄の外側に、各務さんから見れば右斜め前にレールフレックスを押し出す。
ここだ──
その後ろで、後続馬のうちの一頭、タカラノヤマがレールフレックスをかわそうと右前に出掛かっていたんだ。ラブリーウィッチをかわそうとしたレールフレックスは、後ろにいたタカラノヤマの進路を塞ぐ形となり、結果斜行して妨害したと見なされたのだ。
まだ終わっていない──萌黄の言う通りだ。
そうだよ、斜行だって認められて降着処分になれば、萌黄の勝ちなんだ。
でもなー……アイツのことだから、またバカなこと言い出してそうで怖いよな。
「よお」
急に肩を組まれて、オレは飛び上がった。すぐ横でシゲさんのニヤついた顔が待ち受けている。
「なんでスタート失敗したんだ?」
この人……ホント、ヤなこと聞いてくるよな……
「萌黄になんか吹き込まれたか?」
うぐぐ……
「女にダマされて出負けるなんてよぉ、タマついてんのかぁ?」
「ついてますよ! 大体萌黄が縁起でもないこと言うから悪いんです! 萌黄のバカが……『死ぬ』なんて言うから……」
『死ぬかも』
オレはその一言で固まった──一度は振り切ったはずの妄想が、思い出したくない記憶が頭の中を巡り巡って、全身の筋肉を硬直させてしまった。
一瞬の出来事だ。我に返ったときにはもう遅かった。目の前のゲートは開き、全馬が走り去る後ろ姿をオレはただ呆然と見つめていた。
「だーかーらー、それがダマされたって言ってんだよ。大体よぉ、アイツが簡単に死ぬようなタマに見えるか?」
まあ……見えるわけないんですけどね。
でも萌黄にダマされたなんて思いたくない。アイツをダマすことはあっても、ダマされるなんて……末代までの恥だ。これ以上の屈辱があってたまるか!
「アイツの戯言真に受けてるようじゃ、まだまだだな。いくら萌黄に気があるからって、シメるところはシメていかんといいようにヤラれるだけだぞ」
「は……」
反射的に返事しそうになって、オレはもう一度言葉の意味をよく考えた。
「な、何言ってるんですか! オレは別に萌黄のことなんか……」
シゲさんはニヤニヤ。意味ありげに笑ってる。ムカツク……
「……何ですか、その目は。本当に何でもありませんからね。萌黄はただの同期ですよ」
「オメェもホント報われねぇ男だな。かわいそうなヤツ」
「誰がかわいそうですって? オレは幸せですよ! ちっともかわいそうじゃありませんよ!」
「そうだよなぁ。お前は萌黄の一番の『トモダチ』だもんなぁ」
「そうですよ。萌黄とはただの友達です。友達……です、よ……」
「何だか不満そうじゃねぇか、え?」
「別に不満じゃありませんよ! いい加減にしてくださいよ!」
その時、辺りが急にざわついた。
振り返ると、裁決室から三人がちょうど出てきたところだった。
「萌黄!」
シゲさんとの不毛なやり取りも忘れて、オレは思わず駆け寄っていた。
「えへへ……」
コイツの笑顔なんて見飽きたと思ったけど……やっぱそんなことないな。
無垢な子供のようにつぶらな瞳をキラキラと輝かせて、食べることしか能のない口を絵に描いたようにポカンと開けて、底抜けなアホみたいに笑ってるその顔は──
いつだって、オレに大きな力を与えてくれるんだ。
『第一位に入線した十番レールフレックス号は最後の直線走路で急に外側に斜行し、第五位に入線した八番タカラノヤマ号の進路を妨害したため、第五着に降着とし、着順を変更の上確定いたします』
「えへへ、勝ったよ」
クセだらけの鳥の巣頭、いたずらっ子が勝ち誇ったような無邪気な笑顔。
「……バーカ。何だよ、こんなスッキリしない勝ち方しやがって……」
そう言いながら、オレは今すぐにでも萌黄に抱きついて喜びたい衝動を必死に抑えていた。
各務さんが五着に降着──それは二位で入線した萌黄が繰り上がりで一着になるということだ。
自然に浮かんでくる笑みをごまかそうと、きっとオレはヘンな顔をしてたに違いない。ムリヤリ苦い顔を作りつつ、オレは手のひらを前に出した。
高らかな祝砲のように、萌黄は手を打ち鳴らす。その乾いた音が、オレの笑顔を解放した。
萌黄は勝ったんだ……例えどんなカタチであろうと、萌黄が勝ったんだ!
競馬場全体が揺れた──そんな気がした。
歓声、悲鳴、怒号……はちきれんばかりに膨れ上がったダービー直前のスタンドが、様々な感情のるつぼと化している。
降着、繰り上がりと来て、勝ち馬は一番人気から最低人気へ一気に様変わり。それに伴って馬券の配当金も二ケタは跳ね上がったんだから、観客は大混乱必至だろう。
しかし、後検量室はそれ以上に混沌としていた。
「各務騎手が実効四日間の騎乗停止だ!」
外でどこかの記者が叫んでいる。
降着処分と聞いたときから、そうなることは誰もがわかっていたはずだ。
みんなが一斉に各務さんに注目する──
そこにいつもの強気な各務さんはいなかった。青ざめた顔を苦渋で満たし、唇を強く噛み締めているその顔は、こみ上げる無念と怒りを必死で抑えているようにも見える。
どんな処分を食らったって平然としていた各務さんが、これほどまでに失望をあらわにした姿を見たことがあっただろうか。少なくとも、オレはない。
誰もが声をかけることができず、遠巻きに見つめるだけだ。
さあこれからダービーだ──ってこんなときに騎乗停止を食らうなんて、自業自得とはいえ少しかわいそうになる。今日はまだ乗れるが、メンタルは最悪だろう。来週の安田記念だって乗り替わりだ。
何よりも各務さんの蒼白な顔が、この事件の異常さを示していた。
「早川騎手。勝利騎手として口取りをお願いします」
JRAの職員が来て、目の前の萌黄に淡々と告げた。
むらさき賞の勝者は萌黄だっていうのに、皆各務さんの悲壮な面持ちに気を取られて、誰一人萌黄を祝福する者はいない。シゲさんですら眉をひそめて各務さんを見つめている。
萌黄は一人嬉々として外に出て行った。優勝馬ラブリーウィッチの関係者と一緒に、ウィナーズサークルで記念写真を撮るんだ。
その後姿を見送って、口から自然とため息がこぼれた。
オレは……オレも萌黄に負けたんだよな。うれしくないけどうれしい、そんな複雑な気持ち。
悔しいけど、完敗だよ。心理戦だって立派な駆け引きのうち。オレはそれにまんまと引っかかってしまったというわけだ。
腐っても騎手。勝負師ってことか。でも……
「なんで各務さんに勝てたんだろ?」
つい独り言が口をついて出てしまった。疑問ばかりが浮かんできて、何だか釈然としない。
そもそも、なんで逃げたんだ? ラブリーウィッチは追い込み馬じゃなかったのか?
まあ、元々追い込みでもそれほどいい成績を上げていたわけじゃないので、終わってみれば逃げへの方針転換は見事に成功したわけなんだが。でも、後検量室に帰ってきたときの西藤先生の驚いた顔からして、その指示を先生が出したとは考えにくい。
たとえあれが萌黄の独断だったとしても、ラブリーウィッチに最後の直線まで逃げ切るだけの力があったとは思えないし、仮にあったとしても、ゴール前でレールフレックスと競り合える力が残るとも思えなかった。
それなのに、この結果。ラブリーウィッチはほぼ逃げ切ったに等しいし、その上各務さんを斜行という暴挙に走らせて、降着処分に追い込んだ。
各務さんは一言も発せず、次に騎乗するダービーの用意のため、後検量室を去っていった。
この人が一番、萌黄に負けた理由を欲しているんだろうな。あの呆然とした真っ青な顔。未だに斜行してしまった理由がわからないといった顔だ。何が各務さんをそこまで狂わせたんだ?
「なあ、カズ」
オレを振り返ったシゲさんの顔は、妙にサッパリしていた。
「競馬ってギャンブルだよな」
「は? はい」
「ギャンブルって事は、何かしらの不確定要素があるってことだ。そうだろ? 勝ち馬がすぐわかるような賭けなんて成立しないよな」
「まあ……そうですけど」
「天候、馬場状態、馬の調子、枠順、流れ……予測不可能な事柄がいろいろと組み合わさって、予測不可能な結果が出るからこそ、ギャンブルなんだよな。ということはだ、何が起こっても不思議はないってことだ」
「……で、何が言いたいんです?」
シゲさんの言いたいことは薄々わかっていたけど、一応の敬意を表して聞いてみた。
「萌黄が勝った理由、それは……『わからねぇ』ってことだよ」
……さすがは萌黄の兄弟子。言うこと似てきたんじゃねーか?
「そりゃな、軽量ハンデや意外に高速馬場だったこととか、ムリヤリ理由付けしようと思えばできないこともないんだけどな……『わからない』って言ったほうが、なんか萌黄らしくていいじゃねぇか、なあ」
そんな同意求められましてもね……
「ホント、解説者泣かせな騎手だよなぁ。連中、今頃コメントに困ってんだろうよ……オレがもし解説者になっても、萌黄の出るレースは解説したくねぇな」
「そうですねー。引退が近いですから、そういう心配もしたくなりますよね」
呆れて軽口を叩くと、すかさずシゲさんのゲンコツが飛んできた。
「誰が『引退近い』ってぇ? 殴るぞコラ」
って、もう殴ってますけど……
「バカ言うな。オレはまだまだ引退しねぇよ。あんなおもしれえヤツ残して隠居するなんて、そんなもったいねぇことできねぇよ」
「……面白いヤツ、って事には同感ですけどね」
その言葉にシゲさんは白い歯を見せてニヤリと笑った。
「オレはな、時々思うんだよ──オレたちが自分の力で、馬の底力で、計算し尽くして勝ったと思ってるレースも、実は競馬の神様が指先一つで気まぐれに決めてるだけなんじゃねぇかって……萌黄のレース見てるとな、ホントにそう思えてくるから不思議だよ」
降ってわいたような勝利に戸惑い気味の関係者の中で、一人輝く笑顔で写真に写る萌黄。
同期の中ではもっとも遅い三勝目だ。久しぶりの勝ち星を上げた妹弟子の、その晴れ姿を眩しそうに見つめるシゲさんの横顔は、今は亡き愛娘を見つめる父親の横顔のようにも見えて……ほんの一瞬だけ、シゲさんが老け込んだように感じた。
「なあ、カズ」
シゲさんは萌黄を見つめたまま、オレを呼んだ。
「……各務は四コーナーで何を見たんだろ?」
今度は質問の意図がまったくわからず、こちらを向いたシゲさんに困惑の表情を返すことしかできなかった。
「四コーナーから直線へ入ったときのあの動き……各務が四コーナーで、何か得体の知れないものに惑わされて混乱させられたように、オレには見えたんだ。各務はあそこで何を見たんだろうなぁ」
「……さあ?」
シゲさんは自嘲気味にクスリと笑い、そしてかぶりを振った。
「由佳里の幻を見ていた……なんて言ったら、オレもいよいよボケ老人扱いされそうだな」
でも、そう言いたくなるシゲさんの気持ちは、オレにもわかるような気がした。
解説不可能な萌黄の勝利──そうとでも言わなきゃ説明がつかない。いや、むしろそれが一番の正当な理由に感じた。
案外、天国の由佳ねーちゃんが萌黄に手を貸してくれたのかもしれないな。自分を殺した各務さんに天罰を下すために。
オレはそう思いたかった。
「それはそうと、カズ、いいのか?」
「へっ? 何がですか?」
「萌黄のヤツ、各務とデートするんだぞ」
「あーっ! そうだった!」
「なんでぇ、やっぱり気になるんじゃねぇか」
「い、いや……別に……萌黄がどうしようと……オレには……」
「顔が真っ赤だぞ、カズ」
冷やかしの言葉に慌てて顔を背けると、ガラス戸の向こうでインタビューを受けている萌黄と目が合ってしまった。オレの気も知らないで、アイツはニコニコしながら手を振ってきやがる。やめろって……
困ってさらに目をそらすと、モニターの中でダービーのパドックが始まっていた。
波乱に満ちた前座はもう終わったのだ。ダービーに乗らないオレたちは観客にならなければいけない。
いよいよ本舞台の幕が上がる。




