3:各務の懺悔
和弥──?
振り返ると早川の後ろで、怒りとも悲しみとも取れない和弥の複雑な表情がオレを待ち受けていた。
「ウソ……? なんでお前が……」
「オレにはわかる……わかる気がする。あのときのアンタの気持ちが」
和弥は目を伏せ、横を向いた。
「昔のアンタは今のオレとおんなじだよ。大した力もないのにいきがって、強がって、好きな女を守ることが男の使命みたいに思ってさ……バカだよな、男って」
今の和弥と、昔のオレが……同じ? どういう意味だ?
和弥は自嘲気味に笑う。
「オレたち男が自分の強さを見せつけて得意になってたところで、所詮は女の手のひらの上で転がされてるだけなんだよ。オレたちが太刀打ちできないくらいの芯の強さと器の大きさを、女は持ってるんだから」
和弥……お前はオレに何を言わせたいんだ?
和弥はその目に憐れみさえ浮かべて、静かに真実を呟いた。
「なあ、各務さん……アンタ、怖かったんだろ」
身体が、震えた。
「どんなに辛くても苦しくても絶対にあきらめない、騎手としての由佳ねーちゃんが……怖かったんだろ?」
和弥のまっすぐな瞳が、オレの心臓を射抜く。
怖かった──
何度も何度も、頭の中で反芻するその言葉。
「怖かった……」
その言葉が解き放つ──背負い続けた罪と罰を。彼女に伝えなければならなかった、本当の想いを。
「オレは……オレはバカだ……」
喉が震え、言いたくなかった言葉が吐き出される。
「オレは……自分が惨めだった」
上ずる声にシゲさんが目を見張っていた。
「……男のオレが優遇されて、女の由佳里はその実力さえ認められずに冷遇される。それでも必死にもがいて生き残ろうとする由佳里を見て……自分が情けなかった」
女性を受け入れようとしない競馬界への怒り、そして苛立ち。しかしそれを感じたのは最初だけで、そんな保守的な男社会にだんだんと慣れていく自分がいた。
自らを拒絶するような高い壁に、敢然と立ち向かう由佳里。
壁の向こうの男社会でぬるま湯に漬かり、いつしか「必死」という言葉を忘れてしまったオレ。
「オレは悔しかった。彼女に何もしてやれない自分が、そう思いながら何もしようとしなかった自分が……オレはいつの間にか彼女に対して『諦め』の気持ちすら抱いていたんだ……」
それでもなお、女であることを誇りに思っていた由佳里。彼女は冷遇される状況にあっても、決してくさることはなかった。
それなのに──彼女を思いやる「フリ」をして、何も変えようとしなかった自分がいた。
確かに最初のうちは、由佳里のためにもこの閉鎖的な競馬社会を変えてやろうと息巻いて頑張っていたかもしれない。だけど、オレと彼女の間に立ち塞がる「性差別」という高い壁が打ち崩れることはなかった。
そのうちにだんだんと意識が麻痺していき、「非力だから」「優しすぎるから」と彼女が女性であることにいろいろな理由をつけて、いつの間にか壁に背を向けた自分を無理矢理納得させてしまっていた。
「成績では勝っていたかもしれない。だけど……気持ちの上では完全に負けていた。騎手として……オレは由佳里に負けていたんだ」
GIに一つ二つ勝ったくらいで、現状に満足してしまっている中途半端な自分。
重賞に乗ったことすらないのに、いつも上を見て、果てしない夢に向かって突き進もうとする由佳里。
「由佳里に負けたくなかった……騎手として、男として、負けるのが怖かったんだ」
勝負師としての意識の差は、オレに口惜しさと苛立ちを与えるのに十分だった。
「だからオレは由佳里を追い詰めてしまった。勝ちを焦る気持ちが、彼女を死なせてしまったんだ」
彼女のためを思って? 彼女が大事だから? これ以上傷つくのを見たくないから、騎手を引退させる?
そう思う気持ちでさえ、オレのエゴであり欺瞞だったんだ。
由佳里はオレのモノじゃない。彼女は彼女以外の何物でもないのに……
騎手として競馬という厳しい世界を、一人の人間としての充実した一生を、持てる力の限り精一杯生きようとしていた由佳里。そんな彼女をオレは一番愛していたはずなのに──
喉が詰まったように言葉が震える。呼吸さえままならない。
「オレは……なんてことを……由佳里……あんなに……あんなに好きだったのに!」
五年の間、ずっと胸の中でくすぶっていた様々な想いを全部吐き出して、最後に残ったのはただ一つ。
由佳里に会いたい──ただそれだけだった。
今は骨となり、冷たい墓石の下で永遠の時を過ごしているであろう由佳里。愚かな願いだとはわかっていても、それでももう一度だけ彼女に会いたかった。
頬に感じる風が妙に冷たい。
目の前に佇む早川の笑顔が歪んで見える。シゲさんの苦渋に満ちた顔も、和弥のやるせない顔も、何もかも全てが歪んでいた。
急に、早川の左手が伸びてきた。
素早いその動きに思わず身をすくめたが、次の瞬間には温かい手のひらがオレの頬を優しく包んでいた。
「泣かないで」
オレは……泣いているのか?
涙なんてとうに無くなったと思っていた。由佳里が死んだそのときに、流し尽くしたと思っていた。でもこの涙が誰のためのものなのか、今のオレにはわからない。
「由佳里さん……各務さんが来てくれて、きっと喜んでると思いますよ」
そんなことはない──否定する言葉が喉に詰まって出てこなかった。
「その後悔の涙も、由佳里さんならきっと優しく受け止めてくれる……好きな男が見せる涙に、女って案外弱いんですよね」
早川の笑顔が、その穏やかさが、何故か胸に染み入る。
「だけど……過去のことを悔やんでばかりいて、いつまでもグジグジしてるような男は、由佳里さんも嫌いだと思いますよ。そうじゃないですか?」
そう言われて、オレは思い出した。
勝てると思っていたGIに負けて落ち込んでいたとき──なかなか立ち直れないオレを由佳里は怒鳴りつけた。柔和な顔をして、案外キツイことを言うもんだなと舌を巻いたっけ。
『落ち込んでるヒマがあったら、とにかく馬に乗りなさいよ! 一頭でも多く調教つけてきなさいよ! 失敗は絶対にムダにはならない。後ろばっかり振り返っちゃダメ。前を向いてさえいれば、失敗だってきっと背中を押してくれるから』
「ちゃんと前を向きましょう。由佳里さんの時間は永遠に止まってしまったけど、そこに由佳里さんを置き去りにしていくわけじゃないんです。振り返れば由佳里さんはすぐそこにいて、後ろからずっと各務さんの背中を押してくれるんですから」
見下していたはずの早川の言葉一つ一つが、胸の奥深くに突き刺さる。
終始笑顔で、淡々としていながら温かみを感じさせる早川の語りに、オレはそれまで抱いていた嫌悪の感情も忘れて聞き入っていた。
「前に進む者がすべきことは、いなくなった人のことを忘れないこと。時々は振り返って思い出してあげてくださいね。そして──その人が自分に何を望んでいたか、よーく考えてください」
由佳里がオレに何を望んでいたか──
『いつまでも優しい各務さんでいてね』
騎手としてではなく、一人の男としてのオレに望んだ言葉。
ありきたりかもしれない。だが、星の数ほども交わした言葉の中で、彼女がふと呟いたその言葉だけが鮮烈に蘇ってきた。
あの頃にはもう戻れない。けれど──もう一度だけ──
「オレはアンタが大っ嫌いだった」
突然、話を切り出した和弥の声に、オレは我に返って涙を拭った。
「オレ、由佳ねーちゃんのことが好きだったんだ……そのオレから由佳ねーちゃんを奪って、命まで奪ってしまったアンタを……憎んでも憎んでも憎みきれないほどだった」
ああ──知ってたよ。お前がオレを憎んでいたことは。
あの頃、敵意むき出しの視線をオレに送っていた和弥。お前の気持ちにはオレも、そして由佳里も気づいていた。
まだ中学生だったお前を、オレたちは子ども扱いしてたのかもしれないな。だからお前に何も言わなかった。言う必要もないと思ってた。
「でも今なら、オレも騎手になった今なら、アンタがずっと抱えてた苦悩ってヤツがわかるような気がするよ。由佳ねーちゃんに対して感じてた苛立ちも、己の無力さも……オレも同じだから」
そう言って早川に泳がせた和弥の視線を、オレは見逃さなかった。
ああ、そうか。「同じ」というのは、そういう意味か……
昔を彷彿とさせる厳しい視線をオレに送って、そして和弥は毅然と言い放った。
「オレはアンタをこれからも許さない。だけど、自分を赦さないアンタはもっと許せない。この期に及んでまだグダグダやってるようなら、由佳ねーちゃんに代わってアンタをブン殴るからな」
五年の月日は、幼い感情をただぶつけてきていたお前を、一人前の騎手に、大人の男に成長させたんだな。今のお前を由佳里が見たら、「ただのお隣さん」だったあの頃とは違った印象を持つかもしれない。
ずっと黙っていたシゲさんも口を開いた。
「なあ各務……由佳里が騎手を辞めたくなかった理由、わかるか?」
わかっていれば五年も苦しんではいない。あの時、それが何かわかっていれば、オレもまた違うことを言っていたかもしれないのに……
「小難しい理由じゃねぇよ、きっと」
黙りこむオレを笑って、シゲさんは早川の頭にポンと手を乗せた。
「コイツと同じだ」
早川と同じ?
「由佳里はお前と一緒に走りたかっただけなんだ。お前が好きだったから……同じ芝生の上を、同じ風を切って、ずっと走っていたかったのさ。きっと」
それはあくまで推測だ。いや、願望か? 由佳里が死んでしまった今、彼女の胸の内なんて誰も知るはずがないのだから。でも……
由佳里がオレを愛してくれていたから──そう思ったほうが、オレにとっては幸せなことなのかもしれない。不幸にも生き残ってしまったオレにとっては。
「由佳里の短い一生が幸せだったか不幸せだったかなんて、オレたち他人が決めつけることじゃねぇ。そんでもよ、せめて『幸せだった』と思うことにしようや。それが由佳里のため、そして残されたオレたちのためなんだ」
「シゲさんの言うとおりですよ、各務さん」
西日を受けて眩しそうに目を細めた早川の表情は、この上なく美しく見えた。
すべてを慈しむ聖母のような穏やかさでありながら、同時に毒をも喰らう魔女のごとき妖しさ。一瞬のことでありながら目が眩みそうになって、思わず息を呑んでしまった。
「間違いだったと思うことは、もう繰り返さない──由佳里さんに誓って、約束してくださいね。後悔は何度でもできる。だけど……『なくしたもの』はもう『かえらない』んです」
それは妙に重みを感じさせる言葉だった。
苦しさに喘いで天を仰ぐと、いつの間にか雲は流れて空は澄み、西の空が夕焼け色に滲んでいた。
緩やかに流れる風が、涙の跡を乾かしてくれる。徐々に濃くなる紺碧の空に目を閉じると、まぶたの裏に由佳里の眩しい笑顔がくっきりと蘇ってきた。
オレが一番大事にしたかったもの──
『無くしたもの』はもう『返らない』
ああ、そうだな……お前の言うとおりだ。そんな当たり前のことを理解するのに、オレは五年もかかったのか。
「私たちはこの世に置き去りにされた人間……『なくしたもの』は見つからない。『かえらない』ものは戻らない……」
そう言った早川の瞳はどこか虚ろで、奥深い闇をまた見せる。その奥に何があるんだ──中を覗き込みたくなるオレを避けるように、早川は満面の笑みを浮かべてその闇をきらめく光で消した。
「じゃ、そういうことでー、ちゃんと由佳里さんとお別れしてくださいね。後がつかえてますから」
バカげたセリフにも不思議と腹は立たなかった。早川の頭の悪い言動も、鼻で笑い飛ばすくらいの余裕ができてきたようだ。
アイツはくるりと背を向け、オレから離れていった。
「シゲさん、カズくん、かーえりーましょ!」
和弥もシゲさんも黙って頷き、そして相次いでオレに視線を投げてきた。
それは約束──いや、何を約束したのかさえ定かではない。けれど、オレは二人に向けて小さく頷いて見せた。それで通じると思った。
二人も身体を翻し、早川と共に去ってゆく。
「──早川!」
アイツの名前を口にしたのは、これが初めてだったかもしれない。
アイツは立ち止まり、振り返って間抜けな笑顔を見せた。
「何ですかぁ?」
オレは何が言いたかったんだろう?
わからない。わからないけど……何故かアイツを呼び止めずにはいられなかったんだ。
黙りこむオレに怪訝な顔を見せることもなく、アイツは爽やかな笑みを浮かべてこう言った。
『各務さん、さよなら』
由佳里──?
違う。あれは早川萌黄だ。けど、あれは……あの声は……
息を呑み、たじろぐオレを捨て置くように、アイツはまた背を向けて去っていく。その姿が見えなくなるまで、オレは早川の背中をじっと見つめていた。
『さよなら』
彼女に言えなかった言葉、聞けなかった言葉。
由佳里はもういない──
紛うことなきその事実を、過ぎ去った五年の月日を、去り行く背中がはっきりと教えてくれた気がした。




