第二話:梅霖晴間(ばいりんのすきま)
思わず息を呑んだ。
目の前に突如現れたのは、店内を爽やかな笑顔で切り回していたはずの新アルバイトの彼女だった。僕がスマホの画面を伏せる暇すらない絶妙な角度から、彼女はこちらの画面を覗き込んでいる。
「何見よーと?」
語尾にほんの少しだけ九州の方言のような柔らかいニュアンスを混ぜながら、彼女は親しげに目を細めた。急接近してきたその顔は、健康的で整っており、スポーツ選手らしい引き締まった雰囲気を纏っている。
「あっ……ええと」
僕はとっさにスマートフォンの画面を胸元に引き寄せた。
しかし、すでに遅い。彼女の視線は、僕がコンマ何秒かの速度でスワイプしていた愛猫たちの姿をしっかりと捉えていたようだった。
「マスターの息子さんなんでしょ? 初めまして」
彼女は身体を起こすと、緑のエプロンの端を少し整えながら、爽やかな笑顔を僕に向けた。その立ち姿はすっと背筋が伸びていて、高校の女子生徒たちとはどこか違う「大人」の余裕のようなものを感じさせる。
「あ……初めまして、高坂陸です」
僕はペコリと頭を下げた。声が低く、他人行儀になってしまうのは僕のいつもの癖だ。クラスメイトにプリントを受け取るときと同じ、一定の安全距離を保つための防壁。
「私は真壁葵。大学二年。今日からここでバイトすることになったから、よろしくね、陸くん」
真壁葵——それが彼女の名前だった。
葵さんは片手を軽く挙げてみせると、僕の手元にあるスマートフォンへチラリと視線を戻した。
「それにしてもさっきの……すごい勢いでスワイプしてたよね? 無表情だったから何難しい顔して見てるのかなって思ったら、まさかの猫?」
「……はい。うちで飼ってる猫です」
「やっぱり! 三毛猫いたよね!? めっちゃ可愛くなかった!?」
葵さんの瞳が、急にパッと輝きを増した。
さっきまでの「頼もしいお姉さんバイト」の顔から、一気に無邪気な様子へと変化する。彼女はトレーを抱えたまま、乗り出すように僕のテーブルへと歩み寄ってきた。
「私、猫大好きなんだよね! 特に三毛猫! あの白と茶色と黒のぶちのバランスが最高じゃない? え、もう一回見せてよ、陸くん」
「え、あ、はい……」
陽キャ特有の躊躇のない距離感の詰め方に圧倒されながら、僕は渋々スマートフォンを再び操作し、愛猫のアルバムを開いた。
「これです。名前は『みけ』って言います」
「わあ……! めちゃくちゃ可愛い! 毛並みツヤツヤじゃん! え、こっちの虎柄のと、黒ぶちのも陸くんちの子?」
「はい。トラとブチです」
「名前ストレートすぎ(笑)! でも最高だね、三匹もいるんだ。いいなあ、私アパート暮らしだから飼えなくてさ……」
葵さんは僕の隣の椅子にすっと腰掛けそうになるほどの勢いでスマホの画面を見つめている。彼女からかすかに漂う、スポーツ後のような爽やかな香水と、喫茶店特有の焙煎豆の香りが混ざり合って、僕の鼻腔をくすぐった。
自分の聖域にこんなにもあっさりと踏み込まれたのは人生で初めてかもしれない。僕は無意識のうちに少し体を退いて、呼吸を整えた。
◇
「——おいおい、葵ちゃん。陸をあんまり困らせちゃダメだよ」
カウンターの奥から、低く落ち着いた声が響いた。父親であり、この『喫茶カエデ』のマスターである海人だ。ドリップタワーの手入れを終えた父さんが、苦笑いを浮かべながらこちらを見ていた。
「あ、マスター! 違いますよ、いじめてないです! 陸くんが凄まじい顔で猫の写真愛でてたから、つい」
「愛でてたというか、無表情だったけどね……」と僕が小さく補足するが、葵さんは「そこが面白いの!」とけらけら笑う。
父さんは壁の古い掛け時計に目をやった。針はちょうど午後六時三十分を回ろうとしている。店内の常連客もあらかた退店し、外の商店街は橙色から深い群青色へと空の色を変えつつあった。
「葵ちゃん、そろそろ上がりの時間だね。今日も助かったよ」
「いえいえ! まだまだ慣れないですけど、マスターと佐藤さんが優しく教えてくれるんで楽しかったです」
「よし。じゃあ、夜ご飯食べて帰るかい?」
父さんが厨房の奥を指さしながら言った。
「えっ、いいんですか!?」
「もちろん。今日からうちのスタッフなんだから、美味しいもの食べてスタミナつけないと。陸、お前も夜ご飯食べて帰るかい?」
「うん、ありがとう」
僕は教科書とノートを鞄にしまいながら答えた。父さんの作る夜定食は絶品だ。今日のメニューはおそらく、夕方から仕込んでいた特製のハンバーグか、豚の生姜焼きだろう。
「葵さんも今のうちに食べちゃいなさい。上がったらお腹すくだろ?」
「やったー! マスター、ごちそうになります! バスケの練習後だからめちゃくちゃお腹減ってて……!」
葵さんは嬉しそうに胸の前で手を合わせた。運動部特有の元気なリアクションに、厨房から佐藤さんが「はいはい、今美味しく焼いてあげるからね〜」と顔を出した。
葵さんがスタッフルームへと着替えに向かい、店内には一時的な静寂が訪れた。
僕はイヤホンを耳に戻そうかと思ったが、何となく手に取ったまま文庫本を開くに留めた。
(真壁葵……大学二年。バスケ部)
今朝、バスを逃して苦笑いしていた彼女。 昼間、爽やかな笑顔で接客していた彼女。 そしてさっき、猫の写真を見て目を輝かせていた彼女。
属性で言えば間違いなく「陽キャ」の極みのような存在だ。僕のような、自分の殻に閉じこもって他人に踏み込まれたくない「隠キャ」とは、本来なら人生の交差点で一瞬すれ違うだけの人物。
それなのに、なぜか彼女の言葉や行動には、嫌な押し付けがましさがなかった。太陽のような眩しさはあるものの、こちらを焼き尽くすような毒気がない。
(まあ……水木日だけのバイトだし、関わるのは店にいる時だけか)
僕は自分に言い聞かせるように息を吐き出し、ページの文字を追った。
◇
「お待たせ〜! 今日の夜定食は、特製デミグラスハンバーグよ〜!」
十五分後、着替えを終えた葵さんが戻ってきたタイミングで、佐藤さんが大きなトレーに二つの鉄板を乗せてやってきた。ジュージューと音を立てるハンバーグからは、濃厚で芳醇なソースの香りが立ち上っている。
「うわあ……! めちゃくちゃ美味しそう……!」
私服に着替えた葵さんは、オーバーサイズの白いTシャツにデニムというラフな格好だった。髪を後ろでひとつに結んでおり、先ほどよりも少し幼い、等身大の大学生らしい雰囲気が出ている。
僕は自分が座っている一番奥の席で、静かに料理が運ばれてくるのを待っていた。
ところが——。
「はい、陸ちゃんの分ね。で、葵ちゃんの分もここね〜」
「……え?」
佐藤さんは、僕の向かい側の席——本来なら荷物置きや予備として空いている椅子に向かって、葵さんの分のハンバーグ定食とご飯の大盛りをカチャンと置いた。
「え、佐藤さん? 葵さんの席、あっちの広いテーブルじゃなくて……?」
僕が困惑して声を上げると、佐藤さんは悪びれもせずにこりと微笑んだ。
「なに言ってるの陸ちゃん。せっかく同世代(?)の若い子同士なんだから、仲良く食べなさいな。あっちのテーブルはまだ片付けが終わってないし、カウンターはお父さんが作業してるでしょ?」
「いや、でも——」
「私、ここで全然大丈夫ですよ! むしろ陸くんと猫の話の続きしたかったし!」
僕の制止をよそに、葵さんはごく自然な動作で僕の向かい側の椅子を引き、すっと腰掛けた。
狭いふたり掛けのテーブル。 普段なら僕ひとりで広々と使い、参考書やノートを広げている場所に、今や背の高い女子大生が向かい合って座っている。
距離が、近すぎる。
鉄板の湯気の向こう側で、葵さんが嬉しそうに箸を手に取った。
「それじゃあ、いただきまーす!」
「……いただきます」
僕はどこか生殺与奪の権を握られた囚人のような心地で、箸を手に取った。
◇
「んん〜〜〜っ!! 美味しいっ!!」
ハンバーグを一口食べた葵さんは、頬を膨らませて心底幸せそうな声を上げた。
「マスターのデミグラスソース、めちゃくちゃ奥深い味しますね! ご飯が進む〜!」
「はは、口に合ってよかったよ。肉汁が逃げないように焼き目をしっかりつけてるからね」
カウンターの奥から父さんが嬉しそうに応える。
葵さんの食べっぷりは、見ていて気持ちが良いほど豪快だった。細身の体にどこに入っていくのかと思うくらいのペースで、大盛りのご飯とハンバーグが口の中に吸い込まれていく。スポーツ特待生という肩書きは伊達ではないらしい。
「陸くんは、あんまり食べない方?」
僕のお弁当箱のような小ぶりなお茶碗を見て、葵さんが首を傾げた。
「……まあ、僕は運動してないので。これくらいで十分です」
「そっかあ。高校生男子ってもっと食べるイメージあったけど、陸くんはスマートだもんね。あ、でも野菜から食べるタイプなんだ? えらい」
「別に、えらくはないです。ただの癖です」
「ふふ、言い方がいちいち真面目だね」
葵さんはクスクスと笑いながら、サラダのトマトを口に運んだ。
会話が途切れると、鉄板の焦げる音と、店内にかすかに流れるジャズのBGMだけが残る。
僕は普段、誰かと食事をする時も必要最低限のことしか喋らない。クラスでの昼休みも、一人で黙々と食べるのが僕のスタイルだ。向かいに人がいるというだけで、妙に背中がムズムズする。
「ねえ、陸くん」
葵さんがスープを飲んだあと、ふと真面目な顔をしてこちらを見てきた。
「さっきさ、イヤホンで何か聴きながら勉強してたでしょ? 何聴いてたの?」
「……オーディオブックです」
「おーでぃおぶっく? 声で本を読むやつ?」
「そうです。世界史の解説とか、英文法のナレーションとか。目と耳の両方から情報が入ると、暗記の効率が良いので」
「へええ〜〜! すごっ! 高校生でそんな効率考えて勉強してるの? 私なんて大学の講義、眠くならないようにするだけで必死なのに」
葵さんは心底感心したように目を丸くした。
「別に、すごいわけじゃないです。要領が悪いから、時間を無駄にしたくないだけです」
「要領悪い人が、学年上位の成績取れるわけないじゃん」
「……え?」
僕が思わず箸を止めると、葵さんはニヤリといたずらっぽく笑った。
「マスターから聞いたよ〜。『うちの陸は目立たないけど、勉強は上位にいるんだ』って。自慢の息子さんなんだね」
「父さん……余計なことを」
僕は少し顔が熱くなるのを感じて、視線をハンバーグへと落とした。父親が僕のことを客やスタッフにどう話しているのか、想像すると少し痒い心地がする。
「いいじゃん、かっこいいよ。自分のスタイルを持っててさ」
葵さんはそう言うと、ふっと視線を窓の外へ向けた。
ガラス越しに見える街灯の下、紫陽花の花びらが夜風に揺れている。
「自分を守るために、自分のペースを崩さない。それって、結構難しいことだからさ……」
その呟きは、先ほどまでの明るい声とは少しだけトーンが違っていた。 どこか遠くを見るような、ほんの少しの陰り。
大学での講義、部活でのプレッシャー、スポーツ特待生としての期待——彼女が普段背負っているものの重さが、その一瞬の横顔に滲み出たような気がした。
しかし、僕がその陰りに触れる前に、葵さんはすぐにいつもの弾けるような笑顔に戻った。
「あ、そうだ! 陸くん、みけちゃんの他の写真も見せてよ! ほら、さっきの『とてもかわいい』やつ!」
「……『とてもかわいい』って言いましたっけ」
「顔に出てたの! 無表情だったけど、目が『かわいい!!』って叫んでたもん!」
「そんなわけないです」
「いいからいいから、見せて〜!」
葵さんは身を乗り出して、僕のスマホ画面を覗き込もうとしてくる。
「自分で見ます」
「ケチ! 一枚くらい減るもんじゃないでしょ!」
「減りませんけど、人に見せるようなものじゃないです」
「なんでよ〜、減るもんじゃないならいいじゃん! ツンツンしちゃってさあ」
彼女は頬を少し膨らませて、ふくれっ面をして見せた。
大学二年生の、周囲から頼られているはずのスポーツ特待生。 そんな彼女が、なぜか高校二年生の僕に対してだけ、小学生のような無邪気さと、少し生意気な「ツンデレ」な態度をぶつけてくる。
(……面倒くさい人に入り込まれたな)
心の中でそう呟きながらも、僕はスマートフォンの画面を操作し、今朝撮ったばかりの「みけが日向ぼっこをしている写真」を葵さんに見せてあげた。
「うわあ……! これ、日差しが当たってて天使みたい……!」
「……でしょうね」
「そこは素直に『かわいい』って言いなよ!」
二人のやり取りを、カウンターの奥で父さんと佐藤さんが微笑ましそうに眺めているのに、僕は最後まで気づかない振りを決め込んだ。
青い夏梅の実は、まだ固く、酸っぱい。 だけど、この静かな喫茶店の片隅で、僕の日常のペースは少しずつ、確実に揺らぎ始めていた。




