第一話:紫陽花初夏(しようしょか)
六月の上旬。まだ梅雨特有のじめついた重さはなく、朝の空気にはかすかに涼しさが残っていた。
坂道の多い神奈川の路地を、ゆっくりと車体を揺らしながら路線バスが下っていく。車内は制服を着た高校生やスーツ姿の通勤客で八割方埋まっていた。
その中ほど、降車ボタンのすぐ近くに立つ僕——高坂陸は、右手でつり革をしっかりと掴み、左手には文庫本サイズの英文法の問題集を開いていた。
『——Chapter 4. Universal truths and repetitive actions in the present tense are expressed using the simple present format...』
両耳を塞ぐワイヤレスイヤホンからは、落ち着いた声調のアメリカ英語が流れている。聴覚で英文法の講義音声を取り込みながら、視覚でテキストの例題を目で追う。これが、僕が毎朝のバス移動で確立させた一番効率の良い時間の使い方だった。
別に、もの凄く勉強が好きというわけではない。ただ、無駄な時間をぼーっと過ごすのが苦手なのと、自分のペースを守り続けたいだけだ。
ふと、次の停留所を知らせる車内アナウンスが鳴り、視線をテキストから窓の外へと落とした。
コンクリートの擁壁の隙間、古い民家の垣根沿いに、青や紫の蕾を膨らませた紫陽花が咲き始めているのが目に入った。まだ色は薄いが、季節は確実に夏へと向かっている。青い果実が熟す一歩手前のような、どこか酸っぱい空気感。
バスがゆっくりと停留所に滑り込み、ドアが開く。
乗降口から漏れ出るエンジン音の中、歩道の上に立つ一人の女性の姿が視界の端をかすめた。
スポーティーなグレーのパーカーに身を包み、大きなスポーツバッグを肩にかけた背の高い女性だ。彼女は去っていくバスのテールランプを見送りながら、困ったように片手を頭の後ろに回した。
「あちゃー、乗り遅れちゃったか……」
口元がそう動いたのが見えた。すれ違う一瞬の出来事。イヤホンから流れる英語のナレーションにかき消され、彼女の声がこちらに届くことはなかったが、その屈託のない苦笑いだけが、なぜか強く印象に残った。
どこかの大学生だろうか。朝の練習か何かに行く途中だったのかもしれない。
僕は特に深く考えることもなく視線を再び手元の英文法テキストへと戻し、流れる音声に意識を溶かし込んだ。
◇
通っている高校は、県内のごく普通の共学校だ。
二時間目の休み時間、教壇の脇にある棚から配られたプリントを受け取るとき、前の席の男子生徒が「はい、高坂」と僕の机に一枚放り投げた。
「ありがとう」
僕は短くそう答えた。別に冷たく突っぱねているわけでも、怯えているわけでもない。至極自然に、他人行儀ではあるが誠実に「ありがとう」と言う。クラスメイトたちも僕のこのテンションに慣れているため、特にそれ以上の会話が広がることもない。
四時間目が終わり、昼休み。
僕は自分のデスクの上に、母さんが作ってくれた弁当箱を広げた。
運動部の男子生徒たちが食べるような巨大なタッパーではなく、一段の小ぶりな弁当箱だ。彩り豊かな玉子焼き、ほうれん草の胡麻和え、小さなハンバーグ。運動量の少ない僕にはちょうどいい量だが、男子高校生としては少し控えめなサイズかもしれない。
購買に向かい、いつもの紙パックのコーヒー牛乳をひとつ買って戻ってくる。
ストローを挿し、少し甘い乳飲料で口の中を潤しながら、一人で静かに弁当を味わう。周囲では「昨日観たアニメが〜」「今週末どこ行く?」といった賑やかな声が飛び交っているが、僕はその喧騒をBGM代わりにしながら、頭の中で朝聴いた英文法の復習をしていた。
午後の体育はグラウンドでの長距離走だった。
僕は特別足が速いわけでもなければ、極端に運動が苦手というわけでもない。へばって途中で歩き出すこともなければ、トップ集団に食らいついて意地を見せることもない。一定のペースを守り、学年で中位より少し上に位置する集団の中で、淡々とトラックを周回する。
体力がないわけではないが、限界を超えてまで自分を追い込む理由も見当たらない。
それは勉強においても同じだった。学年順位は上位二割のあたりをいつでもキープしている。授業を聞いていれば内容はしっかり理解できるし、テスト前には計画的に復習をする。かと言って「一番になりたい」という執着もない。
目立たず、流されず、自分の快適な領域をみだしはしない。
僕は自分という人間の枠組みを極めて客観的に把握しており、そこから踏み出すことも、捨てることも望んでいなかった。
◇
放課後のチャイムが鳴ると、僕は誰かと約束を交わすこともなく、手早く鞄に教科書を詰め込んで教室を後にした。
帰りも朝と同じ路線バスに乗り込み、車揺れに身を任せながらイヤホンでオーディオブックの続きを聴く。今度は歴史の解説音声だ。
最寄りの停留所で降り、昔ながらの個人商店が並ぶ賑やかな商店街を抜ける。
『喫茶カエデ』
商店街の路地を少し入った角にある、レンガ造りの落ち着いた佇まいの店。ここが僕の家であり、父親が三十年近く営んでいる喫茶店だった。
カランコロン、とドアの鐘を鳴らして店に入ると、芳醇な焙煎豆の香りが鼻腔をくすぐる。
「おかえり、陸」
カウンターの中でハンドドリップのサイフォンを見つめていたマスター——僕の父親が、眼鏡の奥の目を細めて声をかけてきた。
「ただいま、父さん」
「陸ちゃん、おかえりなさーい! 今日も早かったわねえ」
厨房の奥から声をかけてくれたのは、長年この店でパートをしてくれている近所の世話好きなおばさま、佐藤さんだ。いつも明るく、僕の成長を親戚のおばさんのように見守ってくれている。
「ただいまです、佐藤さん」
僕はいつものように店内の一番奥、壁に囲まれたふたり掛けの小さなテーブル席に向かった。ここは店全体が見渡せる上に客の視線が届きにくく、僕にとって最も落ち着く「聖域」だった。
鞄からノートと参考書を取り出し、両耳にイヤホンを装着する。
この店は午前九時半から夜の七時まで開いており、昼のランチや軽食だけでなく、夜には父親特製の定食が出ることでも近所では有名だ。特にコーヒーの味には定評があり、この時間帯も常連客が何人かゆったりと余暇を過ごしている。
僕は歴史の音声をBGMに、明日の予習ノートを開いた。
シャープペンの芯が紙を滑る音と、時折響くカップと皿のカチャという音。
ふと、作業の合間に店内へ視線を向けると、見慣れない人物が水差しを持って店内を歩いているのが目に入った。
今日から新しく入ったアルバイトスタッフらしい。
(……あ)
僕は思わずシャープペンを握る手を止めた。
そこにいたのは、今朝、バスに乗り遅れて路肩で頭を掻いていたあの女性だった。
店の制服である緑のエプロンを身につけているが、スラリと伸びた高い身長と、健康的で引き締まったスタイルは隠しきれていない。ショートボブの髪を揺らしながら、「いらっしゃいませ!」と爽やかで通る声を客に向けている。
どうやら近所の大学の二年生で、部活のない曜日や講義が早く終わる水曜日・木曜日、そして日曜日のランチタイムにアルバイトとして出勤することになったらしい。父さんと佐藤さんが時折何かを教えては、彼女が元気に頷いている。
(大学二年生……バスケ部、って言ってたかな)
父親と佐藤さんの会話が途切れ途切れに耳に入ってくる。彼女はどうやらスポーツ特待生として大学に通っているらしい。僕とは住む世界がまるで違う「陽キャ」の典型のような人だ。
関わることもないだろう、と僕は再び意識を自分の世界に引き戻した。
二時間ほど集中して課題を片付けると、頭が少し重くなってきた。
イヤホンを耳から外し、深く息を吐いて背もたれに体を預ける。一息つくための、僕の密かな「最高のご褒美時間」の始まりだ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を立ち上げる。
アルバムアプリを開くと、そこには我が家で飼っている三匹の愛猫たちの写真が数千枚規模で保存されていた。
一匹目は、お腹の模様が綺麗な三毛猫の「みけ」。 二匹目は、凛々しい顔つきをした虎キジの「トラ」。 三匹目は、背中に大きな黒ぶちがある「ブチ」。
僕は顔の筋肉を一切動かさず、完全に無表情のまま、親指で画面をシュッ、シュッ、シュッと高速でスワイプし始めた。
(……かわいい)
丸くなって寝ているみけの写真。
(……これもかわいい)
あくびをしてブサイクな顔になっているトラの写真。
(……実に、とてもかわいい)
日向ぼっこをしながら前足を伸び伸びとさせているブチの写真。
傍から見れば、死んだような魚の目をしてスマホの画面を猛スピードで叩き割らんばかりにフリックしている怪しい男子高校生にしか見えないだろう。しかし、僕の内面では愛猫たちへの溢れんばかりの愛おしさが爆発していた。
癒やしに浸り、脳の疲労がみるみるとけていく感覚を味わっていた、その時。
頭上から、少し低めの、どこかいたずらっぽく弾んだ女性の声が降ってきた。
「何見よーと?」
「っ!?」
肩が跳ねた。
慌ててスマートフォンを伏せそうになり、思いとどまって視線を上げると——そこには、さっきまで接客をしていたはずの新人バイトの彼女が、トレーを抱えたまま僕のテーブルの脇に屈み込み、こちらの画面を覗き込んでいた。
距離が、近い。
目の前で、彼女の爽やかな瞳が好奇心に満ちて輝いていた。




