エピローグ 真実は一つじゃない (1)
すべての真相が明るみに出た後、世間は文字どおりひっくり返った。
『人望の厚かった若手教師が、自校の女子生徒と関係を持ち、その性的不祥事を告発しようとした同僚の女性教師を殺害。さらに無実の男子生徒に罪を着せたうえ、当該生徒らが無理心中をしたように偽装し、二人の命を奪った――』
あまりに身勝手なその事件の全容は、詳しくニュースで報じられ、瞬く間に全国を駆け巡った。
学校は連日マスコミに包囲され、校長はカメラの前で頭を下げ続けた。
警察のずさんな捜査にも非難が殺到し、ついには所轄署長や県警幹部の責任問題にまで発展した。
ただし、真犯人を追い詰めたのが中学生だという衝撃の事実は、警察や学校の配慮で伏せられた。
直斗と亜季のプライバシーは守られ、マスコミに追い回される事態にはならなかったのだ。
それでも、度重なる事情聴取や学校のカウンセリングなど、大人たちが作り出した騒ぎの渦に巻き込まれ――
二人はあの日以来、まともに顔を合わせて話す時間すら持てずにいた。
そして、狂騒のピークがようやく過ぎ、世間の関心が別の話題へ移り始めた頃……。
暦は八月の半ばを過ぎ、お盆明けの風に、ほんのわずかに秋の気配が混じり始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
深い森の中。
木漏れ日がまだら模様を作る原っぱで、直斗はぽつりと呟いた。
「……ずいぶん、草が伸びたな」
かつて、直斗と麻衣、武の三人で作った秘密基地。
少し見ない間に、夏の旺盛な雑草が膝の高さまで生い茂っていた。
人の立ち入らなくなった場所は、驚くほどの速さで自然に呑み込まれていく。
「本当ですね。虫除けスプレー、持ってくればよかった」
隣で、亜季が足元を気にして顔をしかめた。
白いノースリーブのブラウスに、薄手のカーディガン。
その姿は、やたらきれいでまぶしく見える。
あの屋上で見せた、悪魔のような顔も、冷酷な復讐者の顔も、今の彼女にはない。
ただの、少し背伸びをした、中学二年生の女の子だ。
二人は、崩れかけた小屋の前に並んで腰を下ろした。
遠くで、ツクツクボウシが鳴いている。
森を吹き抜ける風が青葉を揺らし、心地よい音を立てている。
ここに来るのは、事件の手掛かりを求め、亜季と二人で調べに来た時以来だ。
けれど、直斗はもう、少しも恐怖を感じていない。
あの日の惨い記憶は薄れ、今はただ、武と麻衣と過ごした懐かしい日々の思い出だけが、心に鮮やかによみがえる。
しばらく黙って秘密基地の風景を眺めた後。
直斗は、亜季にずっと気になっていたことを切り出した。
「なあ、亜季」
「なんですか? 先輩」
「亜季はそもそも、どうして麻衣を殺した犯人が武じゃないって、思えたんだ? 警察も学校のみんなも、武がやったって最初から決めつけてたのに」
「うーん、なんだろう? 直感というか。それとお姉ちゃんの部屋で、あの天体ノートを見つけたからかな」
亜季は、森の奥へ視線を向けた。
「あのノートをパラパラ読んで、何かこの事件には裏があるって感じたんです。だから、私なりに調べてみようと思って」
「そうだったのか」
「私、お姉ちゃんとそんなに仲良くなかったのは本当だけど、それでも、たったひとりの姉ですから。真相を知らなきゃ、お姉ちゃんが浮かばれません」
「あのさ……もしかして最初から田中が犯人だと思って、それであえてあいつに近づいたのか? あの麻衣の詩の本当の意味もわかってて――」
亜季は膝を抱えたまま、小さく首を傾げた。
その顔には、あのミステリアスな微笑が浮かんでいた。
「フフ、どうでしょう? まあ田中先生は有力な容疑者のひとりではありましたね。一見さわやかで、優しくて、顔もいいし、お姉ちゃん、先生のこと好きになってもおかしくはないなと感じてはいました。……でも、まさか学校の先生が、連続殺人犯だとは思わないじゃないですか。それにアリバイ――」
「麻衣の嘘に、荒井の偽証か。偶然が重なったとはいえ、北川先生の件では確かにあいつには二重のアリバイがあったからな。……それにしても、無茶しすぎだろ。真犯人かもしれない男に無闇に近づいて怖くなかったのかよ」
「私、元々そういう性格なんです。こうと決めたら、何が何でも突っ走るっていうか。――だけど、田中先生はとにかく用心深かったですね。私の演技力でいろいろと探りを入れましたが、殺人については最後までまったく尻尾を出しませんでした」
そこで亜季は、直斗の顔を下から覗き込んだ。
「あ、でも安心してくださいね」
「何をだよ」
「私、あいつにはヤられてませんから。キスすら、許してませんよ。いくら真相を探るためでも、あんなナルシストの殺人鬼なんて、まっぴらごめんですから」
直斗は、一瞬その言葉の意味がわからなかったが、すぐに顔赤らめ、亜季を睨んだ。
「おい亜季! 中学生のくせに、あんま過激なことを言うなよ……」
「そうですか? それでもうまいことかわして、じらして、あの屋上の舞台まで引っ張り出すことに成功したというわけです」
「……すごいな、お前」
亜季は、ふふっと笑って続けた。
「ちなみに、今だから言えますけど……実は最初は、先輩のことも全面的には信用してなかったんです。一応、お姉ちゃんと武先輩の件については容疑者候補でしたからね」
「え、俺もかよ!」
「はい! だって先輩、昔からお姉ちゃんのこと好きだったわけでしょう? 三角関係のもつれで事件を起こした、ってことも、考えられなくはないですよね。それによく言うじゃないですか、犯罪捜査をする時は、まず事件の第一発見者を疑えって」
「うーん……確かに、それもそうだな」
容疑者扱いされていたのに、直斗は思わず感心してしまった。
改めて思う。亜季の頭の切れには、到底かなわない。
「一緒に捜査を始めてすぐに、この人は絶対に犯人じゃないと思うようになりましたけど。お姉ちゃんと武先輩に対する先輩の想い、真犯人に対する怒りはホンモノでしたからね」
「まあな。ずいぶん回り道をしてしまったけど……」
「とにかく、あいつを捕まえられて最高によかったです。私ひとりじゃとても無理でした。全部、先輩が協力してくれたおかげです。ありがとうございました!」
その言葉に、直斗の胸の奥で固く絡まっていたものが、ふっと解けた。
「……礼を言うのは、こっちのほうだよ。麻衣だけじゃない、武の仇も討てたんだ。本当にありがとう。だけど――」
一拍置いて、苦笑いを浮かべる。
「あの屋上の裏切りの演技は……むちゃくちゃ、生きた心地がしなかったぞ。リアルすぎて」
「それは、謝るしかないです。でも、ああでもしなきゃ、あいつに自供させるのは無理だと思ったんで」
亜季が、いたずらっぽく笑う。
直斗は、思わず口を尖らせた。
「ならせめてさ、演技だってこと、やる前に打ち明けておいてくれよ」
「えー、でもそうしたら先輩反対したんじゃないですか? 危険だから絶対やめろって」
「……うん、止めたな」
「ほら、やっぱり。……でも先輩、最後の最後で、私のこと信じてくれましたよね。絶体絶命の状況で、なんで私がお芝居してるって、わかったんですか?」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、直斗は少し照れくさそうに、視線を逸らした。
「ああ……それは――あの時、すれ違いざまに亜季と目が合ったよな? それで、なぜか急に、亜季が初めて教室に訪ねてきた日のことを思い出したんだ」
「私が初めて訪ねていった日?」
「あの時、言っただろ。『お姉ちゃんが最後に何をしようとしてたか、少しだけ知ってる』って」
「あ、あれ!」
亜季が、はっと目を見開く。
「屋上であいつの話を聞いていた時から、その言葉の意味には気づいていたんだ。麻衣が最後にしようとしたこと――それは、おそらく田中ときっぱり別れて、間違いを正すことだった。違うか?」
亜季は黙っている。
肯定も否定もしない。
ただ、風に揺れる前髪の奥で、その瞳が、かすかに笑ったように見えた。
「そこまで知ってる亜季が、そんな男と本気で付き合うわけがない。これは絶対に裏がある、全部、相手を油断させる芝居だ――そう、咄嗟に確信できたんだ」
「へー……」
亜季は感心したように息を漏らし、それから、どこか嬉しそうに目を細めた。
「よく覚えてましたね、私のそんな何気ない台詞」
「忘れるわけないだろ。あの日から、俺は悲しむのをやめて、真犯人を絶対に突き止めるって、決めたんだから」
直斗は、背後の秘密基地へ目を向けた。
風雨にさらされ、屋根はボロボロ、壁の木材は朽ちかけている。
先日の台風のせいか、入口の柱も傾き、今にも崩れそうだった。
「しかし……中学生になっても、麻衣と武は、時々ここに来て、二人で話してたんだな」
「そうみたいですね」
「……どうして、俺には言ってくれなかったんだろう」
事件以来、直斗の心に、そのことが長く引っかかっていた。
「麻衣は、田中との関係にひとりで苦しんでた。そこを、あいつに付け込まれたんだろ。その前に、俺に相談してくれればな……」
「それは、たぶん」
亜季は、静かに言った。
「先輩の気持ちに、お姉ちゃんが気づいてたからですよ」
「え……?」
「お姉ちゃん、他人の心にすごく敏感な人だったから。先輩が自分のことを、小さいころから特別に想ってくれてるって、わかってたんじゃないかな。……だからこそ、別の男の人、しかも学校の先生との泥沼の恋愛話なんて、先輩にはできなかったんです」
「でも、武には――」
「武先輩は、やっぱり北川先生のことが好きだったんだと思います。だから、お姉ちゃんとは、ただの親友。仲のいい兄妹みたいに、なんでも話せたんですよ」
「そうなのか……?」
「はい、絶対に! 先輩も、そこはわかってあげなきゃダメですよ。親友だったんだから」
「…………」
直斗は、目を伏せた。
胸の奥が、ぎゅっと痛む。
単なる慰めかもしれない。
それでも、亜季の言葉は不思議と心に染みた。
麻衣の本当の心は、もう誰にもわからない。
けれど、亜季が見ていた麻衣も、きっと本物の麻衣だったのだ。
「それに――天文部に先輩を誘ったの、お姉ちゃんのほうでしたよね」
亜季の視線が、ふと小屋の裏手へ向けられた。
そこには、麻衣が積み上げた白い石の塔が、今もひっそりと残っているはずだ。
「ああ。三年になって、突然な。星に興味のない俺を、どうして誘ったんだろうって、ずっと不思議だった」
「……私にも、お姉ちゃんの本当の心はわからないけど」
亜季は、どこまでも青い、夏の終わりの空を見上げ、少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「どこかで、SOSを出してたのかもしれません」
「SOS……?」
「田中先生との関係は、きっといつか終わるって、お姉ちゃんも心のどこかでわかってたんだと思います。だから助けてって言えない代わりに、天体観測を理由にして、先輩をもう一度自分のそばに呼んだ。そうやって先輩との距離を、昔みたいに縮めようとしたんじゃないかな、って」
「…………」
「……私はそんな気がします」
直斗の脳裏に、屋上で星を眺める麻衣の姿が、鮮明に蘇った。
望遠鏡を覗きながら、楽しそうに笑っていた、あの横顔――




