第38話 復讐の終演
直斗は歯を食いしばり、ズボンの両ポケットにそっと手を入れた。
指先にざらついた石の冷たい感触が触れる。
そこには学校へ向かう途中の暗がりで拾っておいた、護身用の石がふたつ忍ばせてある。鶏の卵ほどの大きさだ。
体格差は歴然。
柔道の黒帯。
喧嘩強い武すら敵わなかった男。
まともにやり合って勝てる相手ではない。
それでも、戦う。
この石を投げて田中の顔を打ち、怯んだ隙に飛びかかる。
それしかない。
「亜季、滝沢が逃げないよう、入口の扉を見張っとけよ」
「はーい」
田中の指示に、亜季が軽い足取りで、直斗の横を通り過ぎ、斜め後ろの扉へ向かう。
――誰が、お前のようなクズ教師から逃げるか。
そう思った、その瞬間だった。
すれ違いざま、ほんの一瞬。直斗と亜季の視線が交錯した。
亜季の黒い瞳の奥に、さっきまでの甘ったるい狂気とはまるで違うものが宿っていた。
鋭く、冷たく、絶対零度の――
しかし、意志を持った光。
何かを告げるような強い眼差し。
――え?
亜季、お前、まさか――!
その直後、田中が地を蹴った。
長身からは想像もつかない、滑らかで俊敏な踏み込み。
一気に距離が縮まる。
殺られてたまるか――!!
直斗はポケットから石をひとつ掴み出し、渾身の力で投げつけた。
「無駄だよ!」
田中は顔をわずかに逸らし、飛来した石をあっさり避けた。石は空を切り、フェンスの向こうの闇へ消えていく。
間合いが完全に詰まった。
田中はもう目の前だ。
万力のようなその手が、直斗の首筋へ伸びてくる。
指先が、喉に触れかかった。
直斗は、もうひとつの石を握り直し、踏み込んできた田中の顔面めがけて、ゼロ距離で叩きつけた。
「ぐっ……!?」
鈍い音。
石は、田中の額のど真ん中に命中した。
皮膚が裂け、一筋の血が眉間を伝う。
予想外の痛撃に田中は顔をしかめ、つい額を押さえて立ち止まる。
今だっ――!!
その時、扉の前にいたはずの亜季が、音もなく田中の背後へ回り込んでいるのが、視界の奥に映った。
直斗は、亜季へ咄嗟に目で合図を送った。
怯んだ田中にタックルを仕掛けようと、身体を低く沈める。
そして、直斗が飛び込むのと、同時に――
バチバチバチッ!!
雷鳴のような、空気を切り裂く破裂音が屋上に轟いた。
直斗の目の前で、田中の身体が文字どおり跳ね上がる。
「あ! がっ……ぁぁぁっ!?」
白目をむき、全身を痙攣させながら、田中は糸の切れた操り人形のように、コンクリートへ膝をついた。
その後ろに――
青白い放電の光を顔の下から浴びた亜季が、氷のように冷たい目をして立っていた。
手には、黒い小型のスタンガンが握られている。
「……く、クソッ。貴様ら……許さん……!」
それでも、田中は痛みに耐えながら、何とか立ち上がり、直斗に掴みかかろうとした。
だが、その動きに、さっきまでの猛獣の鋭さはない。
――逃がすか!
直斗は田中の腰めがけて、全身でぶつかっていった。
肩に硬い衝撃が走る。
二人はもつれ合い、コンクリートの上に倒れ込んだ。
「離せ……っ、このガキが……!」
田中が身をよじり、太い腕で直斗の首を探る。
直斗は歯を食いしばり、その腰にしがみついたまま全体重をかけて押さえ込んだ。
絶対に離すものか――
バチバチバチッ!!
亜季が、田中の首筋にすかさず第二撃を食らわせた。
田中の身体がもう一度大きく跳ね、ぐったりとコンクリートに崩れ落ちる。
それを見下ろす亜季の唇が、ふっとゆるんだ。その表情は、笑っているようにも、泣き出しそうにも見えた。
そして、亜季はスタンガンを構え直して言った。
「先輩、ちょっと離れてくださいね。――これでも食らえ! お姉ちゃんの、そして私の分だ、この殺人鬼!」
バチッ! バチバチッ!!
「これは武先輩の分! それと直斗先輩の――!!」
亜季が、倒れ伏す田中の背に、何度も何度もスタンガンを押し当てる。
そのたび、田中の身体が無様に跳ねた。
そこにいたのは、ひとりの孤独な復讐者だった。
「亜季……!」
「いいタイミングでしたね! さすが先輩、息ぴったりでしたよ」
あっけにとられる直斗をよそに、亜季はふう、と息を吐いて、スタンガンのスイッチを切った。
亜季は寝返ってなどいなかった。
田中の共犯者を演じながら、ずっとその懐に潜り込んでいたのだ。すべては、姉の仇を討つために。
直斗さえ欺いて田中に罪のすべてを語らせ、勝ち誇った男が隙を見せるその瞬間を、じっと待っていた。
人質としての涙も、田中にすり寄る甘ったるい笑みも、すべてはこの一撃のための芝居だった。
「許せねえ! よくも、麻衣と武を……!!」
うずくまる田中を見下ろし、直斗の中で抑えていた怒りのマグマが一気に噴き上がった。
身体を仰向けに引き起こし、その顔面を殴りつけようと、拳を高く振り上げる。
――こいつだけは、絶対に許すことはできない!
いっそ、俺の手で――!
けれども、振り下ろそうとした直斗の腕を、亜季が横から、あっさりと掴んで止めた。
「いいですよ、もう」
その声は、驚くほど平坦だった。
「こんなゴミのために、先輩が手を汚す必要ないです。三人も殺して、私たちまで殺そうとした。どうせ行き着く先は決まってますよ」
「でもっ――! こいつは、麻衣を……!」
「わかってます。だからこそ生かして、絶望させるんです。エリート教師気取りのこの男が、一番惨めな姿で裁かれるのを見届けてやりましょう」
それは、返す言葉もない正論だった。
拳を振り上げた自分よりも、亜季の方が、ずっと深く、静かに田中を憎んでいるのかもしれない。
亜季はリュックから、太い結束バンドを数本取り出し、直斗に差し出した。
「ほら、暴れないように、手と足を縛ってください。あとは、警察に電話するだけですね。あ、安心してください。今の会話、私が全部録音してますから」
そう言って、亜季は足元の田中を見下ろした。
「先生、他に録音機器はないかって先輩を脅したけど――私のことは調べなかったでしょ?」
田中の喉から、声にならない呻きが漏れた。
「証拠はばっちりです」
直斗は、振り上げた拳をわななかせながら、ゆっくりと下ろし、ふっと息をついた。
それから、亜季から結束バンドを受け取ると、田中の身体をうつ伏せに返し、両手と両足を固く縛り上げた。
スタンガンで戦意を失ったのか、田中はもう抵抗しない。
「スタンガンに、結束バンド――亜季、こんなもの、どこで用意したんだよ」
田中を縛り終えた直斗は、膝をついたまま亜季を見上げた。
「ほら、この前、先輩が言ったじゃないですか。防犯スプレーなんてダメだって」
「ああ、そういえばそんなこと言ったな」
「だから、ネットで買っておいたんです。ほんと、役に立ちました!」
「……そっか。助かったよ」
直斗は、肺に溜まっていた熱い息を、すべて吐き出した。
重かった熱帯夜の空気が、少しだけ軽く感じられる。
ふと、見上げる。
曇天の空に、星は見えない。
――終わったんだな、すべて……
その時、厚かった黒い雲の一部が、風に流された。
切れ間から月の光がこぼれ、新校舎の屋上を薄く照らし始める。
そして、星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。
頭上高く、ベガとデネブ、そしてアルタイル。
あの夜には、まだ揃っていなかった夏の大三角が、今夜は、くっきりと結ばれていた。
「もしもし、警察ですか――」
亜季が、自分のスマホを耳に当て、いつもの明るい声で話し始めた。
「人を三人殺した犯人を、捕まえました。それに殺人未遂も、かな。今、学校の新校舎の屋上です。ええ、私たちは無事です。救急車はいりません」
その横顔に、月明かりが落ちる。
姉の復讐を果たした少女の目に、もう、涙はなかった。
やがて、遠くの方から、サイレンの音が近づいてきた。
それは今度こそ、悲劇の終演を告げる音だった。
星と月の光の下で、直斗は静かに目を閉じた。
まぶたの裏に、秘密基地で笑う武と麻衣の姿が浮かぶ。
――もう、大丈夫だ。
胸の奥で、そっと、二人に語りかけた。
吹き抜ける夜風が、汗ばんだ頬をすっと撫でていく。
その風だけは、あの夜以来初めて、二人の死を悼むように優しかった。




