↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/41

第38話 復讐の終演

 直斗は歯を食いしばり、ズボンの両ポケットにそっと手を入れた。

 指先にざらついた石の冷たい感触が触れる。

 そこには学校へ向かう途中の暗がりで拾っておいた、護身用の石がふたつ忍ばせてある。鶏の卵ほどの大きさだ。


 体格差は歴然。

 柔道の黒帯。

 喧嘩強い武すら敵わなかった男。

 まともにやり合って勝てる相手ではない。


 それでも、戦う。

 この石を投げて田中の顔を打ち、怯んだ隙に飛びかかる。

 それしかない。


「亜季、滝沢が逃げないよう、入口の扉を見張っとけよ」


「はーい」


 田中の指示に、亜季が軽い足取りで、直斗の横を通り過ぎ、斜め後ろの扉へ向かう。

 ――誰が、お前のようなクズ教師から逃げるか。

 そう思った、その瞬間だった。


 すれ違いざま、ほんの一瞬。直斗と亜季の視線が交錯した。

 亜季の黒い瞳の奥に、さっきまでの甘ったるい狂気とはまるで違うものが宿っていた。


 鋭く、冷たく、絶対零度の――

 しかし、意志を持った光。

 何かを告げるような強い眼差し。


 ――え?

 亜季、お前、まさか――!


 その直後、田中が地を蹴った。

 長身からは想像もつかない、滑らかで俊敏な踏み込み。

 一気に距離が縮まる。


 殺られてたまるか――!!


 直斗はポケットから石をひとつ掴み出し、渾身の力で投げつけた。


「無駄だよ!」


 田中は顔をわずかに逸らし、飛来した石をあっさり避けた。石は空を切り、フェンスの向こうの闇へ消えていく。


 間合いが完全に詰まった。

 田中はもう目の前だ。

 万力のようなその手が、直斗の首筋へ伸びてくる。

 指先が、喉に触れかかった。


 直斗は、もうひとつの石を握り直し、踏み込んできた田中の顔面めがけて、ゼロ距離で叩きつけた。


「ぐっ……!?」


 鈍い音。

 石は、田中の額のど真ん中に命中した。

 皮膚が裂け、一筋の血が眉間を伝う。

 予想外の痛撃に田中は顔をしかめ、つい額を押さえて立ち止まる。


 今だっ――!!


 その時、扉の前にいたはずの亜季が、音もなく田中の背後へ回り込んでいるのが、視界の奥に映った。

 直斗は、亜季へ咄嗟に目で合図を送った。

 怯んだ田中にタックルを仕掛けようと、身体を低く沈める。


 そして、直斗が飛び込むのと、同時に――


 バチバチバチッ!!


 雷鳴のような、空気を切り裂く破裂音が屋上に轟いた。

 直斗の目の前で、田中の身体が文字どおり跳ね上がる。


「あ! がっ……ぁぁぁっ!?」


 白目をむき、全身を痙攣させながら、田中は糸の切れた操り人形のように、コンクリートへ膝をついた。


 その後ろに――

 青白い放電の光を顔の下から浴びた亜季が、氷のように冷たい目をして立っていた。

 手には、黒い小型のスタンガンが握られている。


「……く、クソッ。貴様ら……許さん……!」


 それでも、田中は痛みに耐えながら、何とか立ち上がり、直斗に掴みかかろうとした。

 だが、その動きに、さっきまでの猛獣の鋭さはない。


 ――逃がすか!


 直斗は田中の腰めがけて、全身でぶつかっていった。

 肩に硬い衝撃が走る。

 二人はもつれ合い、コンクリートの上に倒れ込んだ。


「離せ……っ、このガキが……!」


 田中が身をよじり、太い腕で直斗の首を探る。

 直斗は歯を食いしばり、その腰にしがみついたまま全体重をかけて押さえ込んだ。

 絶対に離すものか――


 バチバチバチッ!!


 亜季が、田中の首筋にすかさず第二撃を食らわせた。

 田中の身体がもう一度大きく跳ね、ぐったりとコンクリートに崩れ落ちる。

 それを見下ろす亜季の唇が、ふっとゆるんだ。その表情は、笑っているようにも、泣き出しそうにも見えた。


 そして、亜季はスタンガンを構え直して言った。


「先輩、ちょっと離れてくださいね。――これでも食らえ! お姉ちゃんの、そして私の分だ、この殺人鬼!」


 バチッ! バチバチッ!!


「これは武先輩の分! それと直斗先輩の――!!」


 亜季が、倒れ伏す田中の背に、何度も何度もスタンガンを押し当てる。

 そのたび、田中の身体が無様に跳ねた。

 そこにいたのは、ひとりの孤独な復讐者だった。


「亜季……!」


「いいタイミングでしたね! さすが先輩、息ぴったりでしたよ」


 あっけにとられる直斗をよそに、亜季はふう、と息を吐いて、スタンガンのスイッチを切った。


 亜季は寝返ってなどいなかった。

 田中の共犯者を演じながら、ずっとその懐に潜り込んでいたのだ。すべては、姉の仇を討つために。

 直斗さえ欺いて田中に罪のすべてを語らせ、勝ち誇った男が隙を見せるその瞬間を、じっと待っていた。

 人質としての涙も、田中にすり寄る甘ったるい笑みも、すべてはこの一撃のための芝居だった。


「許せねえ! よくも、麻衣と武を……!!」


 うずくまる田中を見下ろし、直斗の中で抑えていた怒りのマグマが一気に噴き上がった。

 身体を仰向けに引き起こし、その顔面を殴りつけようと、拳を高く振り上げる。


 ――こいつだけは、絶対に許すことはできない!

 いっそ、俺の手で――!


 けれども、振り下ろそうとした直斗の腕を、亜季が横から、あっさりと掴んで止めた。


「いいですよ、もう」


 その声は、驚くほど平坦だった。


「こんなゴミのために、先輩が手を汚す必要ないです。三人も殺して、私たちまで殺そうとした。どうせ行き着く先は決まってますよ」


「でもっ――! こいつは、麻衣を……!」


「わかってます。だからこそ生かして、絶望させるんです。エリート教師気取りのこの男が、一番惨めな姿で裁かれるのを見届けてやりましょう」


 それは、返す言葉もない正論だった。

 拳を振り上げた自分よりも、亜季の方が、ずっと深く、静かに田中を憎んでいるのかもしれない。


 亜季はリュックから、太い結束バンドを数本取り出し、直斗に差し出した。


「ほら、暴れないように、手と足を縛ってください。あとは、警察に電話するだけですね。あ、安心してください。今の会話、私が全部録音してますから」


 そう言って、亜季は足元の田中を見下ろした。


「先生、他に録音機器はないかって先輩を脅したけど――私のことは調べなかったでしょ?」


 田中の喉から、声にならない呻きが漏れた。


「証拠はばっちりです」


 直斗は、振り上げた拳をわななかせながら、ゆっくりと下ろし、ふっと息をついた。

 それから、亜季から結束バンドを受け取ると、田中の身体をうつ伏せに返し、両手と両足を固く縛り上げた。

 スタンガンで戦意を失ったのか、田中はもう抵抗しない。


「スタンガンに、結束バンド――亜季、こんなもの、どこで用意したんだよ」


 田中を縛り終えた直斗は、膝をついたまま亜季を見上げた。


「ほら、この前、先輩が言ったじゃないですか。防犯スプレーなんてダメだって」


「ああ、そういえばそんなこと言ったな」


「だから、ネットで買っておいたんです。ほんと、役に立ちました!」


「……そっか。助かったよ」


 直斗は、肺に溜まっていた熱い息を、すべて吐き出した。

 重かった熱帯夜の空気が、少しだけ軽く感じられる。


 ふと、見上げる。

 曇天の空に、星は見えない。


 ――終わったんだな、すべて……


 その時、厚かった黒い雲の一部が、風に流された。

 切れ間から月の光がこぼれ、新校舎の屋上を薄く照らし始める。

 そして、星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。


 頭上高く、ベガとデネブ、そしてアルタイル。

 あの夜には、まだ揃っていなかった夏の大三角が、今夜は、くっきりと結ばれていた。


「もしもし、警察ですか――」


 亜季が、自分のスマホを耳に当て、いつもの明るい声で話し始めた。


「人を三人殺した犯人を、捕まえました。それに殺人未遂も、かな。今、学校の新校舎の屋上です。ええ、私たちは無事です。救急車はいりません」


 その横顔に、月明かりが落ちる。

 姉の復讐を果たした少女の目に、もう、涙はなかった。


 やがて、遠くの方から、サイレンの音が近づいてきた。

 それは今度こそ、悲劇の終演を告げる音だった。


 星と月の光の下で、直斗は静かに目を閉じた。

 まぶたの裏に、秘密基地で笑う武と麻衣の姿が浮かぶ。


 ――もう、大丈夫だ。


 胸の奥で、そっと、二人に語りかけた。


 吹き抜ける夜風が、汗ばんだ頬をすっと撫でていく。

 その風だけは、あの夜以来初めて、二人の死を悼むように優しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。