第37話 絶望の淵で
「……え?」
田中もまた、冷酷な殺人鬼の顔から一転、愛おしい教え子を労うような、とろけた笑みに戻っていた。
拘束していた腕を緩め、亜季の肩を優しく抱き寄せる。
「君の警告どおりだったな。やっぱり、亜季は賢い」
「でしょ? 先輩、思ってたより頭いいから、最後は絶対真相にたどり着いちゃうって思ってたんだ」
二人が顔を見合わせ、楽しげに微笑み合う。
天地がひっくり返り、足元のコンクリートが溶けて崩れ落ちていくような、凄まじい目眩が、直斗を襲った。
「……どうした、亜季」
ひび割れた声が、ようやく喉から出た。
混乱する頭で、必死に考える。
亜季は、わざと自分に近づき、一緒に真相を探るふりをしていたというのか――
秘密基地を一緒に調べたのも、荒井を二人で追い詰めたのも、すべては、自分の目を田中からそらし、何をつかんだかをそばで見張るためだったのか――
そして今、亜季のスマホからの電話と人質の芝居で、この屋上までおびき出して、田中と共に、邪魔な自分を消そうとしている……。
「亜季、まさかお前……こいつと、グルだったのか……?」
「もう、先輩ってば、今さら気づいたんですか? そういうところは甘いですね」
亜季は直斗を見向きもせず、田中のワイシャツの胸元を指で弄りながら、冷たく言い放った。
「お姉ちゃん、美人で、優等生で、いい子ちゃんで。いっつも私を見下してた。学校でも私の存在が霞んじゃうくらい目立ってたし。いなくなってくれて、ホントせいせいしたんだよね」
「嘘だろ……!」
「それに、こんな素敵な先生が彼氏になるなんて、最高じゃん?」
亜季は背伸びをして、田中の肩に頭をのせる。
その顔に浮かんでいたのは、姉を殺した男にすり寄る、狂気じみた恍惚の笑みだった。
「私ね、前から先生のこと、大好きだったんだ。だからお姉ちゃんがいなくなって、チャンスが来たと思っちゃった」
「そんな――亜季、お前本気か! そいつは人を三人も殺しているんだぞ……!」
「別にぃ。だって北川先生も武先輩もほとんど知らない人だし、私には関係ないもん」
田中は、そんな亜季を見て、嬉しそうに肩を揺らした。
「そういうことだ、滝沢。本当に悪いな。君のたったひとりの味方は、僕の可愛い共犯者だったというわけだ」
「……ありえねえ」
亜季の、あの涙も、怒りも、すべてはこの男のための、演技だったというのか――
「ごめんなさい、滝沢先輩。先生に頼まれて、先輩に近づいたんです。まあ、からかい半分もあったけど」
舌を出す亜季を引き継ぐように、田中が一歩前に出た。
「滝沢。いいことを教えてやる。あの夜、尾崎を絞め落として、首にネクタイをかけていた時だ。奴は一瞬だけ目を覚ましてね。朦朧としながら、こう口走ったんだよ。『俺がここで死んでも……あいつが何とかしてくれる。お前を絶対に、許さない……』――とね」
「……本当なのか、それは」
「ああ、今さら嘘はつかんさ」
簡単に信じられるはずがない。さっきまで、武が自ら死を選んだと平然と嘘を並べていた男だ。
けれど――その言葉は、あまりにも武らしかった。
それに、今さらそんな作り話をしたところで、この男には何の得もない。
「武が……最後まで、俺を信じてくれてたのか――」
「名前は言わなかったが、すぐに君のことだとわかったよ。天文部の集まりの時、不自然に尾崎をかばっていたからな。そのこともあって、亜季にそれとなく頼んで君の動きを探らせたんだ」
田中は、くっくっと喉の奥で笑う。
「ほら、大昔の学園ドラマであっただろう? 腐ったミカンは、箱全体がダメになる前に早く取り除いておくものだって。それが滝沢、いまの君さ」
「ふざけるな――腐ってるのは、お前のほうだ!」
「何を言う。僕のような優秀な人間を、君のような半端にいきった中坊と一緒にしないでくれ。――とはいっても、ひとりでここまで真実にたどり着いたことは、認めてやる。成績表は、オール5だ」
それは、もちろん称賛ではない。
虫けらの最後のあがきを観察するような、傲慢な侮蔑だった。
「ねえ先生、もうそろそろ終わりにしよ?」
亜季が、退屈そうに田中の袖を引いた。
「健気な妹の演技、もう疲れちゃった。早くこいつ片付けて、二人でどっか行こうよ」
「そうだな。こんな蒸し暑い屋上は、ごめんだ」
田中が、ゆっくりと直斗のほうへ歩み寄ってくる。
「さて滝沢、悪いが、ここで死んでもらうよ。――ああ、心配するな。警察に疑われないよう、角度も位置も計算して突き落とし、ちゃんと飛び降り自殺に見せかけてやるからな。君のような細っこい中学生なら、それも難しくない」
「……っ!」
「抵抗しても無駄だ。部室で、学生時代に格闘技をかじっていたと言ったのを覚えているかい? 本当は僕は柔道の黒帯でね。強さではあの荒井より上だよ。――絞め技ってわかるかな? きれいに極まれば、人は一瞬で落ちるんだ。君を気絶させてここから放り捨てることくらい、わけもない。尾崎の時に比べたら、楽な仕事さ」
「いいよいいよ、先生! やっちゃえやっちゃえ!」
亜季が、手を叩いて囃し立てる。
人がひとり殺されようとしているのに、ゲームのクリアを喜ぶような、その無邪気さ。
異常な光景だった。
田中が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
重心の低い、いつでも飛びかかれる、猛獣の姿勢。
柔道の有段者という言葉は、ハッタリではないのだろう。
今度こそ、逃げ場はない。
喉が渇ききり、心臓が肋骨を突き破りそうに打つ。
絶望の淵で、直斗の心が、音を立てて折れそうになった。
ここで終わるのか。
何もできず、武や麻衣と同じように、この男のシナリオどおりに。
けれど――
――俺がここで死んでも、あいつなら何とかしてくれる。
武の最期の声が、田中の言葉を通して、脳裏に蘇った。
そうだ、武は、俺を信じて逝った。
汚名を着せられたまま死ぬことになっても、俺が必ず真実を暴くと信じて、たったひとりで。
麻衣も同じだ。
誰にも言えない苦しみの中で、田中という悪魔の嘘に気づき、ノートに真実を託してくれたんだ。
今、俺までここで終われば、すべてがこの男の思いどおりになる。
そんな結末だけは、決して認めない。
死んでいった二人が、絶対に許してくれない――!!
直斗は、震える拳を、強く握りしめた。




