第36話 笑う人質
「さあ、滝沢。今度は君が選択する番だ」
田中は亜季の首を左腕で拘束したまま、空いた右手で、直斗の背後――屋上の縁を指さした。
「君は、この愛らしい麻衣の妹を、救いたいか?」
「当たり前だ……!」
「よろしい。ならば、そこの屋上の縁から飛び降りてもらう」
直斗の身体が凍りついた。
「……なんだと?」
「言葉どおりだよ。フェンスを越えて、自ら地面へ落ちろ」
「バカ言え! 誰がそんなことするか! 俺が死んだら、どうせ亜季も殺すんだろうが!」
「いや、亜季にもちゃんと選択肢は与えるよ。これから先一生事件のことを口外せず、僕に従って生きていくと誓ってくれれば命は助けてやる。この子はお利口そうだから、きっと賢明な選択をしてくれると思う。――もっとも、滝沢。それは今ここで君がきっちり死んでくれた場合の話だけどね」
田中はおぞましいシナリオを、自己陶酔気味に語った。
「君の死は、僕がきれいに飾ってやる。『親友二人を続けて失った絶望に耐えきれず、滝沢直斗は自ら命を絶った』――どうだい? 世間が涙を流して喜びそうな、美しい悲劇の連鎖じゃないか。ほら、早く飛び降りろよ。そうでないと本当に亜季を殺してしまうぞ」
田中はそう言うと、亜季の首に回していた腕の力を、ゆっくりと、だが確実に強めた。
「う、ぐっ……!」
亜季の喉から、押し殺したような苦痛のうめき声が漏れる。
華奢な身体がビクンと跳ね、両手が田中の腕を必死に引っ掻くが、大人の男の凶悪な力から逃れられるはずもない。
直斗の足が、無意識に後ろへ下がった。
背後には、四階分の闇が口を開けている。
「さあ、カウントが終わるまでに飛び降りなければ、この子の首をへし折る。――十、九、八」
田中の死の宣告が、屋上に響き渡る。
「七、六、五」
助けを呼ぶ暇もない。
戦う距離もない。
人質も取られている。
「四、三、二」
もう時間はない。
だが、直斗は不思議なほど冷静でいられた。
そうか――
こいつはやはり――
「……どんな言い訳を並べ立てても、先生、結局あんたは大嘘つきだ。そこに正義なんて欠片もない。麻衣を想っているふりをした、ただの殺人鬼だ」
田中はカウントダウンを止めた。
そして、落ち着き払って言った。
「ほう、ずいぶんな言い草だね。時間稼ぎか? 残念だがその手には乗らんよ」
「違う。時間稼ぎなんかじゃない。たった今、気づいたんだ。武はやっぱり自殺なんかじゃない。そして麻衣も、口封じのため最初から殺すつもりだったってことをな」
「どういう意味だ?」
田中の眉が、ぴくりと動いた。
「まず、武は自分から命を絶つような男じゃない。どんなに追い詰められても最後まで戦い抜く奴だ。特に、あんたみたいな卑怯な教師には絶対に屈しない。あいつがそういう曲がったことが大嫌いな奴だってことは、ずっとそばにいた俺が一番よく知っている」
「……なんだ、今さら感情論か。がっかりだよ」
「違う! あのネクタイの矛盾で、俺はそれを確信できたんだ」
「ネクタイの矛盾……?」
「ああ! あんた、さっきこう言ったよな? 武は、あんたが用意した北川先生を殺したあのネクタイで、自ら首を吊った、と。――ならばその後、麻衣を殺すのに使ったネクタイはいったいどこから出てきた? 警察が現場で見つけたネクタイは一本だけだったはずだ」
「それは――」
田中は言葉を詰まらせ、唇を歪め、つぶやいた。
「尾崎の死体からネクタイを……」
「わざわざ武の死体を木から下ろし、ネクタイを取って、それで麻衣の首を絞める。それからそのネクタイでもう一度武の死体を木に吊るす――そんなこと無理なのは、あんたが一番よく知っているだろう? 近くにいる麻衣が黙って見ているはずないし、工作の痕跡だって残ってしまうかもしれない」
直斗は、田中の目をまっすぐ見据えた。
「実際はこうだったに違いない。あの日、あんたは秘密基地の小屋の中で、連れ出した麻衣の首を例のネクタイで絞め、遺体を奥に隠した。そして、そこへ何も知らずにやって来た武を襲って気を失わせ、心中に見せかけるため、そのまま木に吊るしたんだ。武も、一応話し合うつもりで来たんだ。まさかいきなり襲われるとは思わなかっただろう」
「へえ……たった一本のネクタイでそこまで推理するとはね。大した名探偵だ」
「それに、もし二人の死亡時刻に差があって、武のほうが先に死んだと検視でわかれば――『武が麻衣を殺して自ら命を絶った』という無理心中の筋書きは、そこで崩れる。死んだ武に、麻衣は殺せないからな。だからあんたは、麻衣を武より先に殺しておく必要があった。ただでさえ用心深いあんたが、そのリスクを見逃すはずがない」
「まったく……」
田中の頬がわずかに引きつる。
「……頭が良すぎるのも、考えものだね」
「結局、すべて周到に仕組まれた殺人だったんだ。――いや、もしかすると……! あんたは北川先生を殺すと決めた時点で、麻衣のことも最初から始末するつもりだったんじゃないか?」
その瞬間、直斗の頭の中で、最後の欠片が音を立ててはまった。
「でないと、北川先生を殺した後、あんたが武のネクタイをわざわざ持ち帰った説明がつかない。単に武に罪を着せるだけなら、凶器は現場に残せばいい。――それを、あえて持ち帰った。いずれ同じネクタイで麻衣を殺し、その罪まで武に着せるためだ。――どうだ、違うかっ!!」」
肯定も否定もしない田中の目には、底知れぬ闇があった。
長い沈黙が訪れた。
そして、田中は口を開いた。
「……恐れ入ったよ、本当に」
心の底から感心したように、首を振る。
「まったくそのとおりだ。ぐうの音も出ないよ。……もっとも、尾崎と麻衣が親友だと知った時は、さすがに驚いたがね。だが、すぐに思い直した。すべてを打ち明けた幼馴染を道連れにする――筋書きとしては、これ以上ないほど都合がいい、とね。またしても天が味方してくれたというわけだ」
「……あいつらの絆まで、あんたは道具にしたのか」
「道具、か。……言い得て妙だね。――しかし思ったとおりだったよ、滝沢。君は最初から危険な存在だったんだ。麻衣の幼馴染ということもあって、警戒はしていたがね」
「生憎だったな、田中先生」
直斗は皮肉を込めて言った。
田中の顔に、ほんの少し笑みが戻った。
「そうだ。ついでに言っておくと――学校の職員会議で手荷物検査を提案したのも、この僕だ」
「やっぱりな……」
直斗に、驚きはなかった。
「あのタイミングでいきなりそんな検査をするのは、どうも不自然だと思っていた」
「おや、それもお見通しだったか。計画を実行する数日間は、君と麻衣に連絡を取られたくなかったからね。あらかじめ、連絡手段を絶っておく必要があったんだ。案の定、君は学校にスマホを持ち込んでいたようだね。しかも部の集まりで、すぐには取り返しに行けなかっただろう?」
武からのメッセージに気づけなかった理由――
あれさえ、この男の計算の内だったのだ。
直斗はゆっくり息を吐いて、言った。
「先生、もう諦めろよ。俺はここから飛び降りたりはしない。たとえそうしても、あんたはすべてを知った亜季を殺す。麻衣を、そして武を手にかけたように――」
直斗の渾身の告発が、湿った屋上の空気に響き、夜風に溶けて消える。
田中はもう、言い逃れなどできないはずだった。
あとは、この狂った男が、どう牙を剥いてくるか――
直斗は全身の筋肉を硬直させ、田中のわずかな動きも見逃すまいと身構えた。
けれども、次に静寂を破ったのは、彼の声ではなかった。
「――あははっ」
ひどく場違いで、高い笑い声。
田中の腕の中で、恐怖に怯え涙を流していたはずの亜季が――
うつむいた顔を、ゆっくりと上げた。
そして、もう一度、くすくすと喉を鳴らして笑った。
「あーあ。ほらあ、だから言ったじゃん。先輩に、この手は通用しないって」
直斗の思考が、一瞬、完全に停止した。
亜季は、田中の太い腕から逃れようとするどころか、まるで恋人にすり寄る猫のように、自ら、その胸元へ甘くしなだれかかったのだ……。




