第35話 殺意の計算
「ここまで僕にコケにされても君は黙っているだけなのかい? 情けない奴だな、滝沢は」
挑発に乗ってこない直斗を見て、田中は亜季を抱く腕の力をふっと緩めた。
そして、まるでこれから授業を始める教師のように、落ち着いた口調で話し始めた。
「いいだろう、すべて話してあげよう。――発端は、三か月ほど前だ。あのお節介な女教師、北川京子が、僕と麻衣の関係を知ってしまった。これは後でわかったことだが、僕のことを麻衣から相談された尾崎が密かに北川に言いつけたらしい」
「武が……?」
直斗は耳を疑った。
麻衣も武も、ひと言もそんなことは言っていなかった。
「それでも北川が黙っていてくれれば、それでよかったんだがね。あの女は、校長や麻衣の親にすべてを報告すると言い出した」
「そんなの、当たり前だろ……!」
「いやいや、教師としての建前ではそうだろう。だが、もし事が公になればどうなる? 僕と麻衣は無理やり引き離され、学校も親も世間の晒し者だ。誰も救われない。みんな不幸になるだけだ」
「はぁ? ふざけんな。自己中な理屈を並べやがって」
「自己中だと? 滝沢、君は何もわかってない。僕はただ降りかかる火の粉を払っただけだ。今回の件は、いわば正当防衛なんだよ」
「正当防衛? あんた、何言ってんだ……」
こいつ、まともじゃない。
頭のねじが何本も外れている――
自分だけの正義を微塵も疑わない田中を前に、煮えたぎっていた怒りが、一瞬凍りつく。
「……しかし、さすがの僕も焦ったね。この件が学校にバレれば確実にクビだし、下手をすれば後ろに手が回って何年も牢屋行きだよ。男と女がただ愛し合っただけなのに、くだらない法律やモラルのせいで、僕ほど優れた人間の人生すらあっけなく壊れてしまうんだ。――なあ滝沢、そんなの絶対あってはならないことだろ?」
直斗は、言葉を失った。
言い返せないのではない。あまりに歪んだ理屈に、どこから否定すればいいのかさえ、わからなかったのだ。
それを、田中は同意と受け取ったらしい。満足げに小さく頷くと、さらに続けた。
「だから僕は、正しく処理しただけだよ。わかるよな、それぐらい?」
「わかるか! そんなこと……」
直斗の叫びが、夜気の中にいつまでも揺れていた。
田中はそれをしばらく眺めていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「そうか、残念だね。君はまだ子どもだから理解できないのだろう。――それで、あの夜のことだが――」
直斗は、田中の言葉を遮るように言った。
「……天体観測会が始まる前、あんたが北川先生を呼び出したんだな」
「そうだ。旧校舎の二階で話し合いをしたいとね」
「そして、殺した……」
「そのとおり。廊下の死角でね。死体を新校舎の屋上から見える位置に動かすのには、少々骨が折れたよ」
田中の口調は冷静だが、露悪的で、どこか得意そうだった。
「武をあそこへおびき出したのもあんただろ」
「もちろんそうだよ。そして麻衣にはその目撃者になってもらった。滝沢、全部君の推理どおりだ。尾崎には気の毒だが、美人の女教師に交際を断られて殺したという動機も成り立つしな。ところが――」
「麻衣は、あんたと武をかばって証言を偽った――」
「ああ。あれは確かに大誤算だった」
「あんたは知らないだろうが、本当は俺もあの時、双眼鏡で武の姿を見ていた。最初は警察にも麻衣にも黙っていたけどな」
「へえ、そうだったのか。でも、その沈黙はまったく意味がなかったね。結局、君が証言しなくても警察は尾崎武を犯人と断定したんだから」
「いや、そんなことない。今こうして、田中良彦という真犯人を突き止めることができたんだからな」
田中は薄ら笑いを消し、直斗を睨みつけた。
「……滝沢、君みたいなのを、口の減らないガキと言うんだろうな」
初めて見せた田中の苛立ちに、直斗は手応えを感じた。畳みかけるなら、今だ。
「荒井先生と花村先生のことも偶然じゃないんだろう? 午後八時、あの二人が旧校舎で密会していて、逃げる武を目撃した件だ」
「おいおい、君はそんなことまで知っているのか!」
一転、田中の声がひときわ高くなった。
「……本人たちから聞いたんだよ」
「どんな手を使ったか知らんが、まったくとんでもない中学生だね、滝沢は。――まあ、要は保険だよ、保険。万が一、麻衣が見張りをしくじった時のためのね」
「ずいぶん用心深いな」
「僕はそういう性分なんだよ。君は知らないだろうが、あの不倫バカップル、決まった曜日の午後八時に、必ずあそこで乳繰り合っていたんだ。だからあの日は、天体観測があることをわざと二人に伝えなかった。いつもどおり旧校舎へ来てもらうためにね」
「伝えなかった……そこまで計算したのか」
「そうだ。狙いどおり、あの二人は逃げる尾崎を目撃してくれた。おまけに不倫を隠すため、『尾崎が首を絞めていた』という証言まででっちあげてくれた。まったく、天が味方してくれたと言うべきか。おかげで僕のアリバイは麻衣の証言と重なって二重になったんだ」
田中はたまらなく愉快そうに笑みを浮かべた。
その顔を見ているうちに、腹の底で怒りが再び煮えくり返ってくる。
握りしめた拳の震えを、直斗はもう抑えきれなかった。
「さて、どうだったかな? 僕の話はこんなところだ。滝沢、何か言いたいことはあるか――?」
「もちろん。まだ肝心な話が残っている」
「なんだ? この際だから全部言ってみろ」
いよいよだ。
武の、麻衣の、仇を討つのは今しかない――!
「……武を、そして麻衣を――どうして殺した? お前は麻衣を愛してたんだろう? それならなぜ――」
「おや、そのことを忘れていなかったか」
「冗談はよせ……!」
「ハハハ、悪い悪い。だが、僕が二人を殺した証拠はあるのかな?」
「当然だ。まず、あの森の秘密基地だ。あの場所を知っているのは、俺と、武と麻衣の三人だけだ。だが、あんたなら――麻衣を洗脳していたあんたなら、それも聞き出せたはずだ」
「洗脳とは人聞きが悪いね。しかもそれだけでは根拠が弱すぎる」
「まだ証拠はある。しかも決定的な――」
「ほう……なんだい?」
「凶器だよ。北川先生を絞め殺した学校指定のネクタイだ。だが俺が倒れた北川先生を発見した時、現場には見当たらなかった。もちろん武は犯人じゃない。なら、ネクタイを持ち去ったのは真犯人しかいない」
「それは――」
田中は、口を開きかけてやめた。
反論しようがないのだろう。
「麻衣の首を絞め、武の首を吊ったネクタイは、北川先生を殺したのと同じ物だった。刑事から聞いた話だから間違いない。つまり三人を殺したのは同じ犯人ということだ」
「…………」
「あんたは前もって武からネクタイを盗み、それを使って北川先生を殺した。そしてそのネクタイを持ち帰り、秘密基地で麻衣と武を殺す凶器にしたんだ」
「わかったわかった――」
田中は、亜季を抱えたまま、空いた手でわざとらしく自分の腿を叩いた。
乾いた音が屋上に響く。
「状況証拠とはいえ、見事な推理だよ。しかし、あれは我ながらうまく考えたトリックだったな。事件現場で尾崎が目撃されて、その上凶器が奴のものだとしたら、警察は間違いなく犯人だと断定するだろう」
「学校で武から物を盗んでいたのも、あんただろ」
「ああ、そうだ」
「ネクタイだけじゃ目立つからな」
「察しがいいね。ただネクタイに僕の痕跡が残ったらまずい。だからその扱いには細心の注意を払った。それに比べたら北川や荒井の音声を作る方がよほど簡単だった。いくらでもデータを得る機会はあったからね」
田中はそう言って、ニヤリと笑った。
直斗はそんな田中を、射るような目で見た。
「だが、あんたはまだ不安だった。武が生きている限りはな。それであの秘密基地に呼び出して――」
「いやいや、それは少し違うな。最初に接触してきたのは、尾崎のほうなんだ」
「武が……?」
「僕を疑った奴の方から、麻衣を通して連絡してきたんだ。直接会って、確かめたいとね」
直斗の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
路地裏で再会したあの時、真犯人に心当たりがあるのかと尋ねた直斗に、武は一瞬何かを言いかけ、思い直したようにかぶりを振った。『今はまだなんとも言えない』――と。
あの時すでに、武はうっすらと気づいていたのだろう。目の前にいるこの教師こそが、真犯人ではないかということに。
「君の言うとおり、秘密基地のことは以前麻衣から聞き出していた。これは使えると思ったね。だから僕はそこを話し合いの場所に指定した」
「あそこは、俺たち三人の王国だった……」
「まさに、尾崎が最期を迎えるにふさわしい場所じゃないか。そして僕は奴に言ってやったんだ。『この騒動は、すべてお前が北川に僕と麻衣の関係を密告したことから始まった。麻衣も親友に裏切られて大変なショックを受けている。だから責任を取ってくれ』とね」
「まさか――それを武に言ったのか!」
直斗は我を忘れて叫んだ。
「武に濡れ衣を着せたあんたが、よくもそんな勝手なことを――!」
「勝手? 何を言う。尾崎に言ったことはすべて事実だ。さらに僕は『麻衣は僕がいなくては生きていけない子なんだ、僕が捕まったら必ず自殺してしまうだろう。彼女を守るためにも、君は今ここで死ぬしかないんだ』と付け加えてやった」
「この悪魔め……!」
「そうかっかするな、滝沢。尾崎だって、麻衣の命と引き換えならと納得して自ら死を選んだんだ。僕が用意しておいた例のネクタイでね」
武は、麻衣を守るために、自ら命を絶ったというのか。
誰にも知られないまま、罪を背負わされて。
最後まで、麻衣のことだけを案じて――
「そんなの自殺じゃない、殺しだ! あんたが、追い込んだんだ!!」
「違う! 僕は尾崎に選ばせただけだよ。自分の命か、麻衣の命か。――なあに、大好きな北川先生が死んだのと同じネクタイで首を吊れたんだ。奴も本望だっただろう」
田中の何の罪の意識もない、淡々とした物言い。
完全にサイコパスだ。
「……だが麻衣は――本当にあの子だけは、殺すつもりはなかった」
そこで、田中の声のトーンが急に沈んだ。
「僕は、本気で麻衣を愛していた。あの子も僕だけを頼ってくれていた。家に居場所のない寂しい子だった。それを救ってやったのは、僕だ」
その言葉の底に、冷たい支配の響きがあった。
麻衣をひとりの人間としてではなく、自分の所有物として語っている。
洗脳、グルーミング――
そんなの、愛などではない。
「予想外だったのは、尾崎が首を吊った後、僕らの様子を心配した麻衣が、あの秘密基地に後を追って来てしまったことだ。かわいそうに――彼女は尾崎の死体を見てすっかり錯乱してしまった。そして、今までのことをすべて警察に話すと言い出したんだ。あの子は、最後に僕を裏切ったわけだ――」
「裏切ってなんかない!」
直斗は、田中の言葉を振り払うように言い返した。
この男の言うことを聞いていると、自分まで頭がおかしくなりそうだった。
「麻衣は、目を覚ましたんだ。あんたの嘘に気づいて、間違いを正そうとした。それを――裏切りだなんて」
「同じことだよ」
田中は、冷たく言い切った。
「僕の手を離れようとした。それが、すべてだ。僕のものでなくなるくらいなら、と思った。だから、殺したんだ」
その瞬間、直斗は悟った。
この男にとって、愛も、所有も、命さえも、自分の都合よく組み替えられるただのブロックにすぎないのだ。
亜季は田中の腕の中で力なく目を閉じた。
姉の最期を聞いたせいか、その頬には新たな涙がつたっていた。
「もう、十分だろう」
田中が、ランタンを拾い上げ、ゆっくりと身を起こした。亜季の首を、再び腕に抱え込む。
「君は、よく真実にたどり着いた。教師として褒めてやりたいくらいだ。けれど、それがどうした? それを証明するものは、君の手のノートと、僕が預かったこのスマホだけ。そして君がいなくなれば、その真実とやらもすべて闇の中だ」
田中の目から、すっと光が消えた。
穏やかなまま、何の感情もない。それが何より恐ろしかった。




