第34話 彼女の詩
ここで少しでも引けば、この男はすぐにまた仮面を被り直してしまう。
わずかな隙も与えてはだめだ。
直斗は畳みかけて言った。
「田中先生、あの夜、あんたはいろいろな観測器具を持って遅れて屋上に現れただろう?」
「だから、何だい?」
「あの双眼鏡は、その中にあったんだ」
「なぜそう言い切れる?」
「簡単な話だ。俺は部室から観測器具を運ぶのを手伝ったが、その中に双眼鏡はなかった。そして観測を始めてからは、部員は全員ずっと屋上から出ていない。だから、あんたが持ってきたとしか考えられない」
「……なるほど、消去法というわけか。それで、僕がその双眼鏡をどうしたと言うんだい?」
「さっき言った通り、あんたは双眼鏡を麻衣に渡し、午後八時きっかりに旧校舎の二階を見るよう指示したんだ。理由は――おそらく『北川先生が午後八時に旧校舎で誰かと会おうとしているから、相手を突き止めてくれ』とでも言いくるめたんだろう。自分は部員の指導で手が空かないと言えば、麻衣も納得したはずだしな」
「なかなか想像たくましいね、君は」
「ただの想像じゃない、証拠もある。――とにかく麻衣はあんたを信じた。だが、八時より前に旧校舎を覗かれたら、計画はすべて狂う。なぜなら――その時にはすでに北川先生は死んでいたんだからな」
「……!」
「だからあんたは、ギリギリまで麻衣に器具の準備を手伝わせたり俺の指導を任せたりして、その時刻までは旧校舎を見る暇を与えなかった。そして思惑どおり、麻衣は、自分が代わりに北川先生の姿を見届けようと双眼鏡を旧校舎に向けた。……八時ちょうどにな」
亜季を抱えた田中の顔から、笑みが完全に消えた。
推理は当たっている――その確信が、直斗の声を怒りで震わせた。
「つまり、あんたは観測会に来る直前、旧校舎に先生を呼び出し、盗んだ武のネクタイで首を絞めて殺していたんだ!」
そこまで一気に言うと、直斗は呼吸を整え、声を落とした。
「麻衣が見たのは、そこに倒れた北川先生と、やはりあんたに呼び出された武の姿だけ――普通なら、武が北川先生を殺して逃げたと思うだろう」
田中は沈黙している。
ランタンの光が、ただその横顔に濃い影を落としていた。
「これで新校舎の屋上にいたあんたのアリバイは完璧だ。天文部の部員全員が証人だからな。だが、この計画にはひとつ大きな穴があった。なんだと思う?」
「……さあね。ぜひ聞かせてもらいたいね」
「麻衣と武の関係だ。武は、たとえどんな理由があっても、慕っていた先生を――いや、人を殺すような人間じゃない。麻衣は、それを誰よりもよくわかっていたんだ」
「やれやれ……まいったな」
「あんたは知らなかったんだろう? 麻衣と武が――俺たち三人がどれだけ強い絆で結ばれていたかを」
「……確かに、その点は認めよう。しかし、いったい誰が、学校一の優等生である七瀬麻衣と、これまた学校一のワルである尾崎武が親友同士だと思う? 知らなくて当然だろう」
田中がつい口を滑らせた。
それとも、わざとか――?
直斗は構わず先を続けた。
「麻衣は悩んだはずだ。双眼鏡で見たそのままに武を目撃したと証言すれば、間違いなく警察は武を犯人扱いする。かといって倒れた北川先生だけを見たと言えば、犯行時刻は八時より前にずれ、あんたが屋上に来る前に行われた可能性が出てきてしまう。同じ時間帯に学校にいたのにアリバイのないあんたを、警察は真っ先に追及するだろう。しかも、八時に旧校舎を見ろと指示したのもあんただしな」
「七瀬は板挟みになったというわけか。それで、彼女はどうしたんだい?」
「麻衣は咄嗟に嘘をついた。『北川先生が首を絞められる瞬間を目撃したけれど、犯人の顔はわからなかった』と――これなら、武も、あんたも守れる。そう思ったんだろう」
「……まあ一応筋は通っている。だがね、七瀬はどうして嘘までついてこの僕をかばってくれたんだ? 今の君の話では、そこの説明はないな」
「それは――」
直斗は言葉に詰まった。
もちろんその理由はわかっている。
だが胸が苦しくて、その先が言えない。
「どうしたんだい? どうも声が震えているようだが?」
そんな直斗をおちょくるように、田中は笑った。
「黙れっ!」
田中のにやけた顔を見て、直斗は決意した。
この男を追い詰めるには、どんなにつらく苦しくても、今ここで、すべての事実を明らかにするしかない。
「いいだろう、言ってやる。それは――あんたと麻衣が付き合っていたからだ。教師と生徒という立場を越えて、麻衣があんたのことを好きになってしまったからだ」
「へえ――」
田中は大げさに目を見開いて驚いたふりをし、意地の悪い笑みを浮かべた。
「まさか君の口からそんなことを聞けるとはね。……それで? 僕が七瀬と付き合っていて、北川先生を殺したうえ、尾崎に罪を着せた――そこまで言い切るからには、ちゃんとした証拠があるんだろうね? ほら、さっき君も言ってただろう」
「ああ、ある。麻衣の天体ノートに残された、この詩だ。麻衣が知ったことは、すべてここに記されていたんだ」
直斗は、懐中電灯をつけ、ノートの最後のページを開いた。
麻衣の丸文字で書かれた例の詩が、光の中に浮かぶ。
それを静かに読み上げる。
『夏の夜、天の川を隔てて輝くアルタイルとベガは、密かに互いを愛し合っていた。けれども、孤独で意地の悪い天帝もまたアルタイルを想っており、その愛はやがて、深い嫉妬へと変わった』
「それが例の天体ノートか。しかしなんだ、そのくだらないポエムは。聞いていてこっちが恥ずかしくなる」
田中はいかにも不快そうに、顔をしかめた。
「麻衣が書き留めた七夕の伝説――だけど中身は大きく改変してある。織姫はベガ、彦星はアルタイル。天帝は北の空の北極星。――麻衣は誰かに読まれてもわからないように、星の名前の中に人名を隠したんだ」
「どういうことだ?」
「本当はわかってるんだろう? 織姫は機で『麻』を織る娘――七瀬『麻』衣。北極星は『北』川京子。そして彦星は田中良『彦』――先生、あんたのことだ!」
前回の天体観測会の夜、亜季がスマホで調べた教員異動名簿。
それによって、四年ほど前にこの学校に転任してきた田中の下の名は、すぐに判明した。
そこには、予想どおり『彦』の文字が含まれていた。
「……お粗末な言葉遊びだな。そんなもの、何の証拠にもならない」
そう言いながらも、田中の声からは、さっきまでの余裕がわずかに削げ落ちていた。
「話はまだ終わっていない。この詩に名前を当てはめるとこういうことになる。あんたと麻衣は密かに付き合っていた。だが、北川先生はそれに嫉妬して二人の仲を引き裂こうとした――」
「へえ、面白いね」
「……そう言っていられるのも今のうちだ。この詩の続きには、あんたの卑劣な嘘と犯罪行為が書かれているからな」
「なんだと――?」
『天帝は二人を結ぶかささぎ橋を壊し、永遠に引き離そうとした。アルタイルはベガを守るため、デネブを囮にして、やむなく天帝の光を密かに消した。
ベガはその罪を疑った。それでも彼を庇うため、偽りの星図を描いて、みんなの目を欺こうとした』
「この節の意味は、もうわかるよな? あんたと麻衣の危険な関係に気づいた北川先生は、すべてを公にしようとした。だからあんたは、北川先生を殺し、工作をしてデネブ――つまり白鳥の尾、『尾』崎武に罪をなすりつけた。麻衣は疑いを持ちながらも、あんたをかばって警察に嘘をついた……」
「……だが、それは七瀬がそう疑っていた、というだけの話だろう?」
「疑いかどうかは、最後の節まで聞いてから言え」
直斗は、麻衣の遺した想いを、ゆっくりと読んだ。
『しかし天帝は、本当は孤独ではなかった。そばに寄り添う伴星があったのだ。その存在が真実を照らし出し、アルタイルの嘘は露わになった。
ベガは深く傷つき、北の空に座すデネブとともに、静かに別れを告げた。
「さよなら、愛した星よ。もう二度と、光は交わらない」――
こうして三つの星は夏の大三角となり、互いを見つめながらも決して触れ合えぬ、悲しい永遠の恋として、夜空に残った』
「この最後の節でわかることは、まず、天帝に寄り添う伴星――つまり、北川先生には別の恋人がいたという事実だ」
「なに……!?」
伴星――それがあの北川先生の婚約者、佐々木を指すのは明らかだった。
「さっき俺は、北川先生があんたに嫉妬したと言った。だが、それは違う。詩の冒頭は事実じゃない。麻衣が、あんたに信じ込まされていた嘘だったんだ。あんたは麻衣にこう吹き込んだ。『北川先生は自分に惚れていて、嫉妬から二人の関係を壊そうとしている』、と。そう信じ込ませれば、麻衣は北川先生を憎むし、八時に旧校舎を見張らせる、もっともらしい理由にもなる」
田中の頬が、ピクリと引きつった。
「ところが途中で、それが真っ赤な嘘であることがバレてしまった。なぜなら、麻衣は俺と一緒に、偶然その恋人――北川先生が昔から交際していた婚約者に、直接会ってしまったからだ」
喫茶店で佐々木と会って以来、麻衣の気分がひどく落ち込んでしまった理由――
それは、北川先生に婚約者がいると知ったその時、田中の嘘に、そして、その本性に気づいてしまったからだ。
麻衣は、きっとこう思ったはずだ。
――教師であり恋人でもあるあの人は、本当は信用してはいけない人間なのかもしれない。
自分の身を守るために北川先生を殺し、その罪を武になすりつけたのも、もしかしたら……。
だが、そこまで聞いても、田中は大して悪びれもせず、肩を軽くすくめて言った。
「そういうことか……。それにしても、まさか麻衣が、あのお節介な女教師の恋人に会っていたとはね。まったくの想定外だったよ」
「そして、騙されていたことに気づいた麻衣は、あんたに別れを告げた。――どうだ? 認めるか、すべて?」
「……そうだな。僕と麻衣が恋人関係にあったことは、事実だ」
田中は、二人の関係だけをあっさりと認めた。
その態度の軽さが、直斗には余計に許せなかった。
「――よりによって、なんで麻衣はお前みたいなやつを好きになってしまったんだ!」
抑えきれない思いが、叫びとなってほとばしる。
「あいつは実の父親がいなくて、ずっと寂しさを抱えていた。お前は教師という立場を利用して、そこに付け込んで麻衣をもてあそんだんだろう!」
「いや、ちょっと待ってくれ」
田中は、先ほどまでの穏やかな笑みを、再び顔に貼りつけて言った。
「滝沢、それはひどい誤解だな。僕と麻衣は本気で愛し合っていた。お互い心の底からね。だから麻衣は、僕にすべてを許してくれたんだ。身も心も――」
「身も心も……?」
「滝沢、知っているよ。お前も麻衣のことずっと好きだったんだよな。幼馴染なんだろ? その間にキスぐらいしたか? それともせいぜい手をつないだくらいか?」
「おまえ、まさか――!」
「おいおい、なに興奮してんだよ。愛し合う男女がすることなんて一つだろ。決してやましいことじゃない。君もその年ならわかるよな?」
自慢げに語る田中の顔に、なんともいやらしい、醜悪な表情が浮かぶ。
「そうさ、麻衣は僕にすべてを捧げてくれたよ。もちろん彼女は初めてだった。いやあ、素晴らしかったね。本当に貴重な体験だったよ」
「てめえっ――!」
その瞬間、直斗の中で、何かが切れた。
「絶対に許さねえっ――!!」
胸の奥から突き上げる衝動が、今にも田中へ殴りかかれと、身体を突き動かす。
だがその時、視界の端に、必死に首を横に振っている亜季の姿が入った。
――これは罠です。まだ耐えて!
言葉にしなくても、亜季の表情はそう訴えていた。
そうだ、ここは冷静になれ。
奴の挑発に乗ってはいけない――
直斗は胸の奥で荒れ狂う怒りを必死に押し殺して、その場に踏みとどまった。




