第33話 最後の対決
「――田中良彦先生」
屋上の中央付近に立っていたのは、スラックスに白い半袖のワイシャツという見慣れた姿をした、天文部顧問の青年教師――田中だった。
直斗の言葉を受けても、にこやかな表情は一切崩さない。
そして、その腕の中には、亜季ががっちり囚われている。
「こんばんは、滝沢。こんな遅くにすまないね」
いつもと変わらず、生徒に語りかけるような穏やかな声。その落ち着きに、直斗は底なしの戦慄を覚えた。
細い首に回された田中の腕には、逃げることを許さない冷たい力がこもっている。
懐中電灯の光を浴びた亜季は、肩を震わせ、目はうるみ、頬には幾筋もの涙の跡があった。
「先輩、ごめんなさい……私、余計なことしちゃいました……」
その震える声を聞いた瞬間、直斗の中で張り詰めていたものが、わずかにたわんだ。
――亜季……まったく、やってくれるぜ……。
おそらく亜季は、一向に動こうとしない自分にしびれを切らし、単独で田中にぶつかっていったのだろう。
無鉄砲な後輩への呆れと、無事でいてくれた安堵。
彼女に向かって、直斗は『気にするな』と、小さく首を振った。
「さて、滝沢」
田中は亜季を拘束したまま、足元の小型ランタンをつま先で操作し、点灯させた。
青白い光が下から差し込み、その整った顔を不気味に照らし出す。
「まず、その懐中電灯を消しなさい。眩しくていけない」
ホームルームで生徒を諭すような口調だった。
「リュックを床に置いて、スマートフォンも出すんだ」
直斗は唇を血がにじむほど噛んだ。
言いなりにはなりたくない。
けれども、亜季を人質に取られたこの状況では、命令に従うしかなかった。
直斗は懐中電灯を消し、リュックを足元に下ろした。
「電源を切って、こちらへ蹴りなさい。少しでも変な動きをしたら、その時はわかるね」
外部との連絡を断ち、録音の手段を奪う。
こちら側の最後の武器であるスマホを、頭の回る田中が見逃すわけがなかった。
直斗はスマホの電源を落とし、床に置いて、つま先で強めに蹴った。
乾いた音とともに、スマホが田中の数歩手前で止まった。
田中は亜季を抱えたまま、足でそれを引き寄せ、空いた手で拾い上げて画面を確かめた。
「よし、電源も切れている。素直で助かるよ」
それは、まるで生徒を褒める担任教師のようだった。
この男は三人を殺し、今も少女の首に腕を回している。
それでも田中の顔には、『誠実な若手教師』の笑みが、一ミリの揺らぎもなく張りついてるのだ。
異常だ。
異常すぎる――
「他に録音機器は?」
「……ない」
「そうか。まあ、信用しよう。後で調べさせてもらうが――ああ、もうひとつ、肝心な物があったね。七瀬麻衣の天体ノートだ」
なぜ田中があのノートのことを?
ノートが今、自分の手元にあることは、亜季しか知らないはずだ。
まさか――
直斗は訝しんで、捕らわれた亜季を見た。
視線に気づき、亜季は申し訳なさそうにサッと下を向く。
やはり、麻衣のノートのことを喋ってしまったのか。
だが、あのノートは、目の前の男がすべての真犯人だという、麻衣が遺した唯一の証拠だ。
どうしても渡すわけにはいかない。
直斗は咄嗟に出まかせを言った。
「……ここにはない。家に置いてきた」
「本当かい?」
「ああ」
「ならば仕方ないね。証拠はすべて持ってくるよう言ったのに、言いつけを守れない君が悪い。申し訳ないが、亜季。ペナルティとしてこうさせてもらうよ」
田中は言い終えるより先に、亜季の細い首を、太い腕で絞め上げ始めた。
亜季がたちまち苦悶に顔を歪め、身体をよじってもがく。
こいつ……脅しじゃない。本気だ!
「わかった、やめろ! 言うとおりにする!」
直斗が叫ぶと、田中は腕の力を少し緩めた。亜季が、ぜえ、と荒い息を吸う。
「ノートは……ここにある」
直斗は足元のリュックから天体ノートを取り出し、ぱらぱらとめくって見せた。田中の目が、満足そうに細められる。
「物分かりがいいね。さすが、僕が見込んだだけのことはある」
「見込んだ……?」
「ああ。君は、注意すべき生徒だったよ。あの観測会の夜から、ずっと警戒していた」
田中はランタンの青白い光の中で、ゆっくりと微笑んだ。穏やかなのに、底が見えない。
直斗は、自分から斬り込むことに決めた。
喋らせて隙を待つより、揺さぶった方がいい。
「全部、わかってるんだ。北川先生を殺したのは、あんただ。理由も、見当はついてる」
田中の表情は、ぴくりとも動かない。
「ほう。続けてごらん」
「凶器は、武のネクタイ。あんたが盗んだ。武は前に言ってたんだ、学校で物が盗まれるって。シャーペン、体操着――その中にネクタイもあったはずだ。教師のあんたなら、生徒の持ち物をくすねるのは簡単だからな」
「さあ、どうだろうね」
「そして武を、あの日の午後八時、北川先生の声色で旧校舎に呼び出した。さっき、荒井の声で俺を呼んだのと同じ手口だ。流行りのAIだろ。違うか?」
田中は、感心したように小さく頷いた。
否定はしない。それが、何よりの答えだった。
「よく考えているね。その推理力は、学校の勉強には活かされなかったようだがね」
その挑発を直斗は受け流した。亜季の首にかかる腕が緩んでいる今のうちに、核心へ進む。
「でも、あんたの計画の要は、そこじゃない。――麻衣だ。あの夜、麻衣は星なんか見ていなかった。最初から旧校舎を見ていたんだ」
「七瀬が、旧校舎を? 仮にそうだとして、それに何の意味があるんだい。星を見ていて、たまたま旧校舎の異変が目に入った。それだけのことだろう」
「偶然じゃない。あの双眼鏡のピントは、はじめから旧校舎に合わせてあった。あれじゃ星なんてぼやけて見えない。この前の観測会で、同じ双眼鏡を使って確かめたんだ」
田中は答えず、続きを促すように小さく首を傾げた。
「星が大好きな麻衣が、観測会の夜に、星も見ずに旧校舎を見張っていた。よほどの理由がなきゃ、そんなことはしない。――あんたがそう仕向けたんだ。麻衣に双眼鏡を渡して、八時ちょうどに旧校舎の二階を見るように、と」
その瞬間だった。
田中の口元が、微妙に歪んだ。
あの夜から一度も崩れなかった教師の仮面に、初めてひびが入ったのだ。
しかし、田中はすぐに元の表情に戻って言った。
「どうも理解できないね。たとえそうだとしても、なぜ僕が七瀬にそんな指示を出したんだい? 午後八時に北川先生が殺されるのをわかっていて、その瞬間をわざと目撃させたとでも言うのかい?」
「あんたの言うことは、半分合ってて、半分間違っている」
直斗は、すかさず言い返した
「麻衣にわざと『目撃』させた、というのは本当だ。だが、八時に北川先生が殺された、というのは事実じゃない。あんたの作り話だ」
「……ほう。どういうことかな?」
田中が眉をひそめる。




