第32話 脅迫電話
夏休みという言葉が、今の直斗にはひどく虚しく響いた。
自室の壊れかけのエアコンは低く唸るばかりで、吐き出される風は生ぬるい。
窓を開ければ、狂ったような蝉時雨が波のように押し寄せてくる。
机の上には、手つかずの宿題が積み上がったままで、何もかもが中途半端。
直斗はベッドに仰向けになり、汗で肌に張りつくシーツの不快さにも構わず、歪んで見える天井の木目をぼんやりと目でなぞっていた。
終業式から、すでに一週間。
けれども直斗の時間は、あの夜、屋上で真犯人の名にたどり着いた瞬間から、一秒も進んでいなかった。
推理と状況証拠を積み上げて導き出したその名を、亜季以外には、まだ誰にも話していない。
亜季――麻衣の妹とはいえ、いまだに何を考えているかつかみきれない、不思議な一つ下の後輩。
彼女はあの夜、直斗の推理を聞き終えると、すべて納得したように「速攻でシメてやりましょう」と物騒なことを言いだした。
それだけは絶対にやめてくれと、押しとどめるのに苦労した。
告発をためらう理由は、ただひとつ。
今の手持ちの証拠だけで武の冤罪を晴らし、真犯人を確実に追い詰められるか、自信が持てなかったからだ。
双眼鏡のピントが示す矛盾。
天体ノートに残された違和感。
秘密基地に隠されていた真実。
そして、麻衣が遺した詩――
それらの断片をつなぎ合わせて浮かんだ推論だけで、果たして足りるのか。
あれほど綿密な計画をやり遂げた相手だ。
証拠になりそうな痕跡は、すべて消し去っているに違いない。
やっぱり、ここですべて警察に話すべきか――?
だが、直斗はすぐにその考えを打ち消した。
山田刑事の、爬虫類のように冷たい目を思い出したのだ。
警察はすでに『尾崎武が犯人』と断定し、捜査を終了させ、被疑者死亡のまま、まもなく書類送検するという。
そのタイミングで、ただでさえ生意気だと目をつけられている中学生が、不完全な証拠と不確かな推理を持ち込んだところで、まともに取り合うはずがない。
無力感に苛まれる日々が、さらに続いた。
八月を目前にしたその夜は、一段と寝苦しかった。
風のそよぎすらない。
世界が分厚い地の底に沈んだような、息苦しい夜だった。
午後十一時半を回ろうとした頃。
机に突っ伏していた直斗の耳に、聞きなれた電子音が飛び込んできた。
ベッドの上のスマートフォンが発光している。
薄暗い画面に浮かんだのは、『七瀬亜季』の文字だった。
こんな時間に、なにかあったのか!?
直斗は思わず飛び起き、通話ボタンをスライドさせた。
「……どうした、亜季?」
『よお滝沢。……俺だよ、荒井だ』
鼓膜に響いたのは、亜季の声ではなかった。
少し低めの、大人の男の声。あの体育教師の声だ。
直斗は一瞬、耳を疑った。
なぜ今さら荒井が?
不倫が公になるのを恐れ、口を封じにきたのか?
「……荒井、先生……? なんで、あんたが亜季のスマホを……亜季は、どうしたんだよ!」
『七瀬亜季は今、俺が預かっている』
声は、ひどく平坦だった。
いつものテンションの高さがない。
感情の起伏がすっぽり抜け落ちた、不気味なトーンだ。
『亜季の命が惜しかったら、お前の手にある証拠をすべて持って、今すぐ新校舎の屋上へ来い。裏のフェンスを越えて、非常階段を使え。このことは警察にも、誰にも言うな。言えば、即、亜季を殺す。――必ず、ひとりでだ』
そこで通話は、不自然に切れた。
静寂が戻った部屋で、直斗はスマホを握りしめたまま、唖然とした。
――罠だ。これは間違いなく、罠だ。
瞬間的に、警察への通報が頭をよぎった。
だが、それはあまりに危険だ。
山田刑事はどうせ話を信じてくれないだろうし、普通に一一〇番しても、すぐに対応してくれる保証はない。
その間、こちらの動きに気づいた犯人が、亜季を手にかけるかもしれない。相手は冷酷な連続殺人犯なのだ。
迷う時間などなかった。
どうしても、ひとりで行くしかない。
直斗は素早く動いた。
犯人の求める『証拠』といえば、不倫動画の入ったスマホと、亜季から借りている麻衣の天体ノートしか思い当たらなかった。
スマホをポケットにねじ込み、ノートとLED懐中電灯をリュックへ放り込む。
足音を殺して階段を下りると、リビングの明かりは落ちていた。
奈美恵はすでに眠っているらしい。
今なら、気づかれずに出て行ける。
玄関を開けた瞬間、むっとする夏の夜気が肌にまとわりついた。
空は厚い雲に覆われ、星ひとつ見えない。闇が地面から立ち上がってくるような夜だ。
自転車で行こうかと思ったが、鍵を部屋に置き忘れたことに気づく。
取りに戻る時間すら惜しい。
直斗は振り返らず、闇の道へ駆け出した。
もし亜季の身に何かあったら――
天国の麻衣に、どう顔向けすればいい。
むせ返るような熱帯夜を、直斗は走り続けた。
昼間アスファルトが蓄えた熱が、湿った空気とともに路面から立ち上る。額の冷や汗が目に沁みる。
肺の奥が燃えるように熱く、喉から血のような味がせり上がる。
深夜の校舎が、見えてきた。
それは、夜空に黒々と切り抜かれた巨大な石棺のように見えた。
直斗は正門を一瞥し、すぐ裏手へ回る。
防犯カメラの死角にある、フェンスの低くなった一角は、かつて武と見つけた抜け道だ。
錆びた金網に指をかけ、つま先をねじ込み、一気に身体を引き上げた。
服が引っかかる鈍い音がしたが、構わず反対側へ飛び降りる。
着地の衝撃で足首が悲鳴を上げたが、痛みはすぐ意識の外へ押しやった。
指示どおり、新校舎の外壁に沿った非常用外階段へ向かう。
金属のステップを踏むたび、カン、カンという響きが、静まった校庭に広がっていく。
北川先生を殺し、武に罪を着せ、麻衣を口封じに殺し、最後は武まで奪った男――
何食わぬ顔で日常に紛れ込み、自分たちを嘲笑っていたその男への憎悪が、無力感も、恐怖も、根こそぎ刈り取っていた。
最上階の踊り場に出る。
屋上への鉄扉に手をかけると、昼の熱をまだ残した、生ぬるい鉄の感触が、汗ばんだ掌に伝わってきた。
ノブを回すと、あっさりラッチが外れる。
鍵は掛かっていない。
直斗は大きく息を吐き、扉を押し開けた。
新校舎の屋上に広がっていたのは、四角く切り取られた闇だった。
星のない曇天の下、光を吸い込むコンクリートの床は、底なし沼のように見える。
急に吹きはじめた夜風が、前髪を揺らした。
リュックから懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。
光の束が闇を裂き、床を滑って、十メートルほど先の、ふたつの人影を白く浮かび上がらせた。
やっぱりか――!
そこに立っていたのは荒井ではなかった。
さっきの電話の声は、やはりニセモノだったのだ。
武が、作られた北川先生の声に騙され、旧校舎に呼び出されたのと同じ手口だ。
「――あんただったんだな」
直斗は低い声で、ごく静かに言った。




