第31話 偽りの星図
直斗はノートから顔を上げた。
グラウンドを挟んだ向かいの旧校舎へ、視線を向ける。
ここから旧校舎まで、直線でおよそ六十メートル。
街灯の弱い光が、入口の古い錆びだらけのスチール扉をぼんやり照らしている。
首から下げた双眼鏡を手に取った。
指先に触れる、黒い樹脂の欠けた感触。部の備品箱から取り出したものだが、間違いなく前回の観測会で麻衣が使っていた、年代物の双眼鏡だ。
――あの日の午後八時きっかり、麻衣はこの双眼鏡で、北川先生が首を絞められるところを目撃した。
犯人は背を向けていて、顔は見えなかった。驚いて双眼鏡を落とした。……麻衣は、警察にそう証言したはずだ。
直斗は試しに、あの時と同じように双眼鏡を覗き、旧校舎を見てみた。
――自分が最初に見たのは、倒れた北川先生の下半身。続いて、少し離れた場所に立っていた武の、走って逃げる姿だ……
そこで直斗はふと、事件直前の麻衣の言葉を思い出した。
織姫と彦星の位置を聞いた直斗に向かって、彼女は双眼鏡を構えながら、こう言ったのだ。
『あのデネブと結ぶと、夏の大三角。ほら、もう東の空にちゃんと出てる』――
あれ――?
待てよ……!
直斗は急いで部の備品の星座早見盤を手に取り、円盤を回した。
天体観測会のあった六月二日、午後八時に目盛りを合わせる。
そして、盤面が示す星の配置を見た瞬間、はっと気づいた。
「やっぱり、変だよな……」
盤面が示す東の空に、ベガ(織姫星)はすでに昇っている。デネブも、北東の地平線すれすれにようやく顔を出したところだ。
けれども、アルタイル(彦星)は、まだ地平線の下に隠れていて、空に昇ってきていない。
地球の自転と公転の影響で、星の見える位置や時間は、季節によってかなり変化する。
七月下旬の今ならはっきり見える夏の大三角も、一ヶ月半前の六月上旬、しかも午後八時という早い時間帯では、まだ空に完成していないのだ。
直斗はすぐにページを遡り、去年の六月の観測記録を探した。
麻衣が二年生の時のページだ。
あった。
東の空に描かれた夏の大三角――アルタイルとベガ、デネブがきれいに線で結ばれている。だが、記録された日付は去年の『六月二十八日』、時刻は午後八時だ。
直斗の心臓が、警鐘のように鳴り始める。
続いて、今年の六月二日のページと見比べる。丁寧に描かれた星図は、星の配置が去年の記録と『まったく同じ』だった。
これは、明らかにおかしい。
同じ時刻でも、一ヶ月近く日にちがズレれば、星の位置は目に見えて変わるはずだ。
いったいどういうことなのか――?
おそらく、麻衣はあの夜、事件の混乱があったせいで、星座の作図もほとんどできなかったのだろう。だが、ずっとつけ続けてきた大切な天体ノートの記録を途切れさせたくなくて、後日、去年の六月の記録をそのまま写して、今年の星図を完成させたのだ。
しかし、それなら、あの時麻衣はなぜ『もう東の空にちゃんと出てる』――つまり、まだ昇っていないアルタイルまで見えると言ったのか?
たとえ星図を描けなかったとしても、実際に双眼鏡で星空を観測していれば、そんな誤りを犯すはずがない。
もしや――
直斗は再び双眼鏡を構え、夜空を見上げ、ピントを合わせた。
無数の星が、鋭い光の点となって視界に飛び込んでくる。
ピントはそのままに、双眼鏡を旧校舎へ向けた。
「あっ……!」
思わず息が漏れた。
レンズ越しの旧校舎は、ひどくぼやけていた。輪郭がにじみ、人が立っていても、顔までは到底見分けられそうにない。
考えてみれば、当然だ。
星に合わせたピントで、六十メートル先の建物がはっきり見えるはずがない。ましてや辺りは夜の闇。頼りになるのは、旧校舎の廊下に点る古い蛍光灯の明かりだけなのだ。
だが、あの時は違った。
麻衣が落とした双眼鏡を拾って旧校舎を覗いた時、直斗は廊下に立つ人物が武だとすぐにわかった。顔も、服の色も、ちゃんと見分けられたのだ。ピントをいじる余裕など、なかったのに。
やっぱり、そうか――
直斗は確信した。
麻衣はそもそも星空を見ていなかった。ピントの合っていない双眼鏡で、星を観測するふりをしていた。だから、アルタイルとベガの位置を聞かれた時、焦って去年の記憶を頼りに『もう出てる』と言ってしまったに違いない。
麻衣の本当の目的。
それは、あの夜、午後八時、旧校舎の二階で『大事な何か』が起こるのを目撃すること。
双眼鏡のピントが旧校舎にぴたりと合っていたのは、決して偶然ではなかったのだ。
しかし、だとすると、麻衣はどうして、その時刻に、あの場所で何かが起こると知っていたのか。
他の誰かが、前もって彼女に教えたとしか思えない。
それはいったい、誰なのか――?
さらに、ここでもうひとつ大きな疑問が浮かぶ。
武のことだ。
まったく同じ時刻、同じ場所に呼び出された武の姿について、麻衣はひと言も触れなかった。だが、あらかじめ旧校舎に双眼鏡を向けていた彼女が、最も信頼している親友の姿に気づかないことなどあるだろうか?
あり得ない。絶対に。
結局麻衣は、実際に現場にいた武を目撃しながら、直斗にも警察にも嘘をついていたのだ。
それはなぜか?
武が北川先生の首を絞める瞬間を見てしまい、武をかばうために?
いいや、違う。
武が犯人でないことは、自分が誰よりもよく知っている。
それに、あの時レンズの中に見えたのは、倒れた北川先生と、逃げていく武の姿だけだった。首を絞めた犯人など、どこにもいなかった。
武も、午後八時に現場へ行った時には、先生はもう倒れていたと言っていた。
もし本当に八時ちょうどに先生が首を絞められていたのなら、同じ時刻、同じ場所にいた武が、犯人を見ていないはずがない。
つまり八時には、すべてがもう終わっていたのだ。
そこから導き出される結論は、ただひとつしかない。
麻衣は、北川先生が殺される瞬間など見ていなかった。
直斗と同じく、倒れた先生と、真犯人に呼び出された武の姿を、双眼鏡で目撃しただけだったのだ。
そして――午後八時に武を旧校舎へ呼び出した人物と、その時刻に二階を見るよう麻衣に教えた人物は、おそらく同じ……。
そこで直斗は、もう一度ノートの最後のページ――六月二日の記録を開いた。
夏の大三角の図の下に、麻衣が書いた織姫ベガと彦星アルタイルの伝説がある。
去年の記録には、なかったものだ。
星図は写しでも、この詩だけは、麻衣が新しく書き足したのだ。
これは、彼女が遺した、最後のメッセージということになる。
『夏の夜、天の川を隔てて輝くアルタイルとベガは、密かに互いを愛し合っていた。けれども、孤独で意地の悪い天帝もまたアルタイルを想っており、その愛はやがて、深い嫉妬へと変わった。
天帝は二人を結ぶかささぎ橋を壊し、永遠に引き離そうとした。アルタイルはベガを守るため、デネブを囮にして、やむなく天帝の光を密かに消した。
ベガはその罪を疑った。それでも彼を庇うため、偽りの星図を描いて、みんなの目を欺こうとした。
しかし天帝は、本当は孤独ではなかった。そばに寄り添う伴星があったのだ。その存在が真実を照らし出し、アルタイルの嘘は露わになった。
ベガは深く傷つき、北の空に座すデネブとともに、静かに別れを告げた。
「さよなら、愛した星よ。もう二度と、光は交わらない」――
こうして三つの星は夏の大三角となり、互いを見つめながらも決して触れ合えぬ、悲しい永遠の恋として、夜空に残った』
初めてこれを目にした時、直斗はあまり深く考えなかった。
少女漫画好きの麻衣が、伝説に乙女のポエムでも混ぜたのだろうと思ったのだ。
けれども今、すべての意味を理解してしまった。
そして、その瞬間、これまで散らばっていた暗い影の断片が音を立てて噛み合い、おぞましい事件の全体像が浮かび上がった。
「麻衣――本当に、そうなのか……」
残酷な真実に、直斗の喉から低い呻きが漏れた。
怒りをねじ伏せようと、手にした双眼鏡をミシミシと音が鳴るほど強く握りしめる。
「どうしたんですか、滝沢先輩? 顔色、すっごく悪いですよ?」
突然、真横から声がした。
いつの間にか亜季が隣に立ち、覗き込むようにこちらを見ている。
その黒い瞳は、すべての真実を見透かしているように、妖しく光っていた。
「……わかった。亜季、わかったんだ」
震える声で、絞り出すように言う。
「え……!?」
「真犯人が」
「ほんとですか?」
「ああ、たぶん。――いや、間違いない」
さすがの亜季も驚きを隠せない様子で、すっと身を寄せてきた。
直斗は込み上げる怒りを必死に押し殺し、亜季にだけそっと囁いた。
「麻衣は北川先生が殺される瞬間なんて見ていなかった。いや、見られるはずがなかったんだ。八時には、先生はもう殺されていたんだから」
「……私にはよくわかりませんが」
「無理もない。俺もたった今、気づいたんだ。要するに麻衣は、本当の犯人に利用され、アリバイ作りの証人に仕立て上げられたってことだ」
「うーん……? で、とにかく、お姉ちゃんを騙して、武先輩に罪を着せた、その真犯人って、いったい誰なんですか?」
「それが誰か言う前に、ひとつネットで調べてほしいことがある。亜季、スマホあるか? 俺はこの前の手荷物検査で懲りたから、今日は持ってきてないんだ」
「はい、ありますよ」
亜季は周りをさっと見渡し、声をひそめた。
「じゃあバレないように、トイレにでも行って調べてきます。で、何を調べれば?」
「教職員の異動名簿だ。春の人事異動で発表されるやつ。それを、何年か前までさかのぼってほしいんだ」
「了解!」
亜季が小さく、でもはっきりと返事をした。
真犯人を追う二人の頭上には、あの夜と変わらぬ星々が、何も知らぬように静かに瞬いていた。




