第30話 青い星月夜
旧校舎での息詰まる対決から、数日が過ぎた。
放課後、直斗は教室の窓にもたれ、グラウンドで部活の指導をする荒井を見下ろしていた。
笛を鋭く鳴らし、生徒に大声で指示を飛ばす姿は、事件前と何ひとつ変わらない。
教壇に立つ花村先生も、同じことだった。
チョークを握る手がほんの少し震えている気もしたが、ホームルームや授業で見せる冷徹な態度は、見事なくらい普段どおりだ。
不倫も嘘の証言も暴かれ、あれだけの醜態を見せたのに、翌日には何事もなかったように「教師」の顔をかぶって現れる。
その図太さには、呆れるのを通り越して、感心すら覚えた。
もっとも、それは直斗たちにとっても好都合だった。
二人が黙っている限り、こちらも真犯人探しの危うい捜査を続けられるからだ。
そして、一学期最後の天体観測の日がやってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
七月も下旬に入った、新月の夜。
新校舎の屋上。
直斗は冷たい手すりに寄りかかり、夜空を見上げていた。
頭上には無数の星々が瞬いている。
梅雨明け直後の澄み切った夜空は、街明かりがあってもなお、吸い込まれそうな奥行きを感じさせた。
あの夜から、一ヶ月半。
空だけは、何ひとつ変わっていなかった。
「……いないんだな、本当に」
誰に宛てるでもなく呟いた声は、夜風に溶けて消えた。
屋上の中央では、部員たちが望遠鏡のセッティングに追われている。
新しい部長の門脇が指示を出し、後輩が従う。
平和でありふれた部活動の風景だ。
けれども、そこに麻衣の姿はない。
ふいに、直斗の中に、小学六年の冬、麻衣と武と一緒に秘密基地から見上げた、冷たい夜空の記憶が蘇った。
家に帰りたくなくて、小屋の前で三人、肩を寄せて空を見上げた。
木々の隙間に、星がいくつも光っていた。
武はどこからか持ってきた古い双眼鏡を、飽きもせず覗き込んでいた。
麻衣は膝を抱えて、静かに星を数え、小さく「きれいだね」と言った。
直斗は特に何も言わなかったが、その光景を、ずっと覚えていようと思った。
結局、残ったのは自分ひとり。
だが、それでもあの夜、あの場所、あの瞬間に、三人は確かに存在していたのだ。
思い返せば、六月のあの夜。
初めて観測会に参加した自分は、星になんて興味がなかった。
ただ麻衣のそばにいて、彼女の楽しそうに笑う横顔を見ていただけだ。
あの日、星のことをもっと知っていれば――
そんな後悔の念にかられた時、直斗は麻衣の天体ノートのことを思い出していた。
観測会で、彼女が熱心につけていた、美しいノートだ。
亜季にそのことを尋ねると、「ああ、あのノートですか。家にありますよ」と即、答えが返ってきた。
遺品を整理していて、机にしまってあったのを、真っ先に見つけたという。
貸してほしいと頼むと、亜季は快く渡してくれた。
麻衣が一年生の頃から使っていたノートには、月ごとの星空や星の名前、星座の伝説まで細かく書き込まれていた。
直斗は図書館に通い、天文学の本を何冊も開いて麻衣のノートと熱心に見比べてみた。
そうするうちに、思いがけない感情が胸に芽生えてきた。
星の運行は、驚くほど正確だ。
何万年もの時間を旅した光が、今この地球に届く。
その圧倒的な静けさとスケールに触れていると、残酷な事件のことすら、一瞬忘れてしまいそうになる。
『空とか星とか見てると、いろんなことが小さく思えてくるんだよね』――
以前、麻衣がそんなことを言っていた気がする。
あの時はただ頷いただけだったが、今ならその感覚がよくわかる。
「ちょっと先輩たちー! ピントの合わせ方、これで合ってますか!? 全然見えないんですけど!」
突然、感傷的な静けさを破るような、場違いに明るい声が響いた。
振り向けば、新しい望遠鏡に抱きつくようにして亜季がはしゃいでいる。
「あ、七瀬さん、そこは接眼レンズのダイヤルじゃなくて、こっちの粗動ネジを先に回すんだよ」
「えー? こっちですか? あ、なんか星っぽいの見えた! 門脇先輩すごーい!」
門脇が顔を赤くして丁寧に教えている横で、亜季は無邪気な後輩を完璧に演じていた。
「こら七瀬、少し声が大きいぞ。ここからなら近所には聞こえないと思うが、一応もう少し静かにな」
背後から穏やかな声がかかった。
振り向くと、田中先生が苦笑いを浮かべて歩いてくる。
ようやく立ち直ることができたのか、事件前と変わらない様子で、部員の輪に戻り、夜空を見上げながら指導を始めた。
「あ、ごめんなさい先生。ちょっと興奮しちゃって」
亜季が舌を出して肩をすくめる。
「まあ気持ちはわかるけどな。今日は空の条件がいい。騒ぐより、ゆっくり見たほうが得だぞ。せっかくの新月だ。いつもより星がよく見えるはずだからな」
「はい!」
明るく頷く。
その無邪気な笑顔は、周囲から見ればただの元気な中学生女子にしか見えないだろう。
けれども、直斗は見逃さなかった。
亜季がふとこちらに視線を向けた、その一瞬――
ほんのわずかに口元が歪み、例の小悪魔の笑みが浮かんだのを。
それは、ついさっきまでの無邪気な表情とは、まるで別人のようだった。
――亜季は何かに気づいたのか? それとも、油断するなと言いたいのか。
屋上の扉は、普段は施錠されている。生徒がここへ上がれるのは、今日みたいな特別な日だけだ。
このチャンスを逃せば、次はいつになるかわからない。今のうちに、何か手掛かりを見つけておかなければならない。
直斗は小さく深呼吸し、リュックからノートを取り出した。
亜季から借りている、麻衣の天体観測ノートだ。
ペンライトの細い光で、ページをめくる。
最後に残されていたのは、事件のあった日――六月二日の観測記録だった。
そこには麻衣らしい几帳面な丸文字で、旧校舎の立つ南東から北東の空にかけての星図が描かれていた。
星の明るさごとに色分けまでされた、丁寧で美しいスケッチだ。
そして夏の大三角の下には、織姫と彦星の伝説が、彼女の筆跡で綴られている。
デジタル腕時計の数字が、午後七時五十九分を示していた。まもなく午後八時――
麻衣が北川先生の死を目撃したと言い、自分が走り去る武の姿を見た、あの時間だ。




