第29話 自己保身の犠牲者
絵の具の匂いがかすかに残るあの夜と同じ教室で、直斗は二人の教師に向かって、問いを突きつけた。
「北川先生が殺されたあの夜。あなたたち本当は『どこで』『何を』していたか、です」
「……!」
荒井の喉がゴクリと鳴り、花村先生の肩がビクッと跳ねた。
「荒井先生。実は俺、事件の後、武が殺される前に一度会って、本人から直接話を聞いているんです」
「なにぃ?」
「事件のあった日、武はここの二階で北川先生の遺体を見つけ、逃げる途中、一階で荒井先生と出くわした――そう、はっきり言っていました」
想定外の言葉に、荒井の顔からさらに血の気が引く。
「そ、それは、そのとおりだ。警察にも、ちゃんと話してある。見回りしてたんだ」
「見回り? 本当ですか?」
「それ以外に何があるってんだ!」
そう言う荒井の目は、宙を泳いでいた。
「でも武はこうも言ってたんですよ、荒井先生のいた教室の奥に、もうひとつ別の人影があった、と」
直斗の鋭い視線が、荒井の背後に身を潜めようとする花村先生を射抜く。
「学校の夜の見回りって、わざわざ教師二人でやるものなんですか?」
「そ、そういうこともあるわ! だから私も一緒に――」
花村先生が、慌てて弁明した。
「あれ? 俺はまだ一言も、その人影が花村先生だったとは言っていませんよ。武によれば、暗くてもうひとりの顔は見えなかったそうです」
「あら……そ、そうなの……」
自ら墓穴を掘ったことに気づき、花村先生は息を止め、口をつぐんでしまった。
「二人とも、真実を話してください」
直斗は静かに言った。
「本当は、北川先生を殺したのは荒井先生なんじゃないんですか? そして武に罪をなすりつける計画だったんじゃないですか?」
「ば、バカを言え!」
荒井が仰天して目を剥いた。
「何を根拠に! だいたい俺が北川先生を殺す理由なんて、どこにもない!」
「そうでしょうか? 荒井先生が北川先生にストーカーまがいのことをしていたのは知ってますよ。それと先生たちの不倫。どっちも北川先生にバレて、口を封じようとしたんじゃないんですか?」
直斗が話し終えると、亜季がその続きを引き継いだ。
「そうなるとですね、自動的に武先輩とお姉ちゃんを殺したのも、荒井先生ってことになると思うんですよ。死人に口なしっていうじゃないですか。武先輩に全部押し付けて自殺に見せかければ完全犯罪ですよね」
「違う! お、俺はそんなことしてない! 適当な作り話で、俺を殺人鬼扱いするな!」
脂汗をかきながら必死に否定する荒井に、亜季がゆっくり歩み寄る。
「……往生際が悪いですねえ。否定するだけじゃダメですよ。いい加減、あの夜、本当は何があったか話してください。このまま黙秘を続けるなら、本当に動画を送っちゃいますよ。……三、二、一」
亜季は画面をスワイプする素振りを見せ、カウントダウンを始めた。
「待て! わかった、言う、言うから待て!」
荒井は裏返った悲鳴を上げ、ついに観念したように床へ膝をついた。
「……あの日の夜は、俺と花村先生は、旧校舎でその――落ち合う約束をしていたんだ」
荒井は額の汗を手の甲で拭い、早口でまくし立て始めた。
「この人は最近、生徒指導や保護者のクレームでひどく悩んでいた。俺は同僚として慰めようとしただけで……魔が差したんだ。ムードに流されて、抱き合ってキスをしてしまった。けれど誓って言うが、本当にそれだけだ! 一線は越えていない!」
荒井の必死の言い訳。
花村先生は顔を真っ赤にし、恥ずかしさと恐怖でポロポロと涙を流しながら、うつむいて黙っている。
そんな二人を、亜季が氷のように冷ややかな声で嘲笑った。
「うわぁ……大の大人が、不倫の言い訳に『魔が差した』とか『ムードに流された』ですか? しかも学校内で? ホテルにまで行ってたくせに、一線は越えてないとか、信じらんない!」
「お前ら子どもにはわからんかもしれんが、大人にも息抜きが必要なんだよ! それに旧校舎はいつも人気がないし安全だと思ったんだ。あの日天体観測やるなんて話も聞いてなかったしな」
花村先生がこらえきれず、耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「もういいでしょう! お願い、やめて……! このことが夫にバレたら、私は離婚よ……」
しかし直斗は、冷徹に言葉をつないだ。
「花村先生、泣いてごまかせると思わないでください。人が三人も死んでいるんですよ。荒井先生、続けてください。もし少しでも嘘をついたと判断したら、即、亜季にメールを送信させます」
「このガキ……!」
荒井はギリギリと歯ぎしりをしたが、致命的な動画を前にしては、何もできない。
「クソっ……別に大した話はねえよ。あの夜、ここでこの人と会っていたら、突然足音がして、尾崎の野郎が血相を変えて走ってきやがった。あいつは、こっちを見た。暗がりだったが、絶対に抱き合ってるのを見られたと思った」
「それで……?」
「尾崎は教師なんか目の敵にしてる不良だからな。もしあいつが、俺たちの関係を学校中に言いふらしたらと思うと焦っちまった。その矢先だよ、お前たち天文部が北川の死体を見つけて大騒ぎになったのは」
荒井の顔に、醜悪な、自己防衛のためだけの笑みが浮かんだ。
「俺たちは密かに旧校舎を出た。そこで俺は閃いたんだよ。『見回り中、尾崎が北川の首を絞めているのを、俺がひとりで目撃した』と警察に証言してやればいい、とな。そうすれば、あいつは殺人犯として確実に捕まる。殺人犯の戯言なんて誰も信じない。俺たちの不倫がバレるリスクも完全に消える。違うか?」
「お前……ッ!!」
抑えていた直斗の怒りが、急激に沸騰した。
荒井はあの夜、旧校舎の二階で、武が北川先生を殺す瞬間など目撃していなかった。
ただ一階で「現場から逃げる武」と、鉢合わせしただけだったのだ。
「お前の、その嘘の証言のせいで……武は警察に追われ、逃げ場を失ったんだぞ! しかも麻衣まで、巻き込まれて――!」
直斗が叫んでも、荒井は悪びれるどころか、むしろ被害者ぶって開き直った。
「知るかよ! 状況的に、あいつが犯人だったことには変わりないだろうが! あいつが北川を殺して、罪に耐えきれず首を吊った。そうだろ? 俺の証言はただ事件の解決を早めただけだ。間違ったことなんかしてない!」
「……クズですね。本当に、救いようのない」
底冷えのする亜季の低い声が、荒井の詭弁を叩き斬った。
「もし武先輩が真犯人じゃなかったら、いったいどうなるんですかね。先生たちの嘘の証言も、警察にバレる。もちろん不倫も――あるいはやっぱり先生たちが殺人犯じゃないかって、疑われちゃうかもしれませんよね」
「そ、それは困る! 俺たちはただ……!」
痛いところを突かれ、荒井がパクパクと口を開閉させる。
「もういいよ、亜季。こいつらに何を言っても無駄だ。せめて武と麻衣に、一言でも謝ってほしかったけどな」
胃の底に泥が溜まるような胸糞悪さを感じながら、直斗は床にしゃがみ込んだ花村先生に言った。
「花村先生、顔を上げてください。あなたは先生でありながら、同じ学校の生徒を――無実かもしれない武をかばうどころか、自分を守るためだけに、荒井先生の嘘の証言を黙っていた。それだけで、教師失格だと思います」
直斗は、そう言いつつ、頭の中で状況を整理した。
麻衣が双眼鏡で、北川先生の首が絞められるのを見たというのは、午後八時ちょうど。武が二階で遺体を見つけたのは、その直後のはずだ。
そして、まさにその頃、荒井と花村先生は階下のこの部屋で抱き合っていた――
どう考えても、人を絞め殺したばかりの人間が、そんな真似をするわけがない。もし本当に犯人ならば、一刻も早くこの旧校舎から逃げ出しているだろう。
「ただ、少なくともお二人が北川先生を殺した犯人ではない、ということだけはわかりました」
「当たり前でしょ!」
床に突っ伏していた花村先生が、突如顔を上げて声を上げた。
「滝沢君、私も荒井も、北川先生は殺していない。もちろん尾崎君と七瀬さんのことも――お願い、信じて!」
直斗と亜季は顔を見合わせ、小さく頷いた。
「最後に、荒井先生、あなたは何か言うことはないんですか? 俺たちにじゃない。死んだ武に」
「……ねえよ。今さら……」
「あんたの嘘の結果、武は殺人犯としてこの世から抹殺された。それだけは絶対に忘れないでください」
「…………」
荒井はバツが悪そうに顔を背け、最後まで明確な謝罪を口にしようとはしなかった。
「この動画は公表しません。今夜のことは警察にも黙っています。少なくとも、武の無実を証明できるまでは――行こう、亜季」
「先生たちも、気をつけて帰ってくださいね。明日も授業ありますよね。楽しみにしてまーす」
亜季が最後に残酷な笑みを残し、直斗を追って、旧美術室を後にした。
旧校舎を出ると、生ぬるい夜風が頬を撫でた。
結局、荒井は真犯人ではなかった。手持ちのカードも、これですべてなくなった。
ようやくつかんだと思った答えが、指の隙間からこぼれ落ちていく。
――だったら、誰が北川先生を殺したんだ?
見上げた空には、白い月がぽつりと浮かぶだけだった。




