第28話 旧美術室の断罪
日は完全に落ち、生徒たちも皆下校した午後七時半。
夜の帳が下りた旧校舎は、昼間とはまるで別の世界のような、不気味な静けさに包まれていた。
直斗と亜季の二人は、かつて美術室だった一階の空き教室の片隅に、じっと身を潜めていた。
美術道具の類はすべて片付けられていたが、それでも部屋の中には、絵の具や木材の匂いに、湿ったカビ臭さが混じっている。
古くて、暗くて、不快――
普段なら絶対に来ない場所だ。
「しかし先輩って意外と大胆ですよねえ。わざわざこんな気味の悪い教室に、二人を呼び出すなんて」
しんと静まり返った教室に、亜季の声が響く。
彼女は窓辺に寄りかかり、月明かりを浴びて足をブラブラさせている。
こんな状況なのに、緊張した様子はまったくない。
むしろ、これから始まるゲームを心待ちにしているようだった。
「すべてはここから始まったんだ。武があの夜、荒井を見かけたのは、この美術室だからな。そのとき、荒井と花村先生がここで何をしていて、何を見たのか。本当のことを白状させるには、二人が何より恐れている『現場』の空気を吸わせるのが、一番効くだろ?」
「でも、本当に来ますかね。無視して帰っちゃうかも」
「来るさ」
「どうしてそこまで言い切れるんです?」
「あいつらには、公衆電話からひと言だけ伝えた。『事件の夜の秘密を知ってる。午後七時半、旧校舎の美術室へ来い』ってね」
「……それだけですか?」
「それだけで十分だ」
「うーん、先輩もえげつないですね! 私、ゾクゾクします!」
亜季はいかにも楽しそうに言った。
「武と麻衣のためならなんでもするさ。そうしない限り、二人は浮かばれない」
「いいですね、その意気で。そういえば事件の日、武先輩も電話で旧校舎に呼び出されたんでしたね」
「ああ、おそらく真犯人が、北川先生の声色を作ってやったんだと思う。だから、こっちも同じ手を使ってやる」
「荒井先生が犯人なら、それでいいんですけどね」
亜季はそう言って、フフフと妖しく笑った。
「でももし違ったら、どえらいことになるんじゃないですか?」
「お前、今さら何言うんだよ……」
直斗は、亜季の顔を見直して言った。
「さっきからいろいろ突っ込んでくるけどさ、内申点でも心配してるなら今からでも帰ったほうがいいぞ。確かに、この対決が失敗したらただの生徒指導じゃ済まないだろうからな。親にも連絡がいくだろうし、大騒動になる」
その言葉に、亜季はクスッと笑った。
「まさか! ここまで来て引き下がれるわけないじゃないですか。私だってお姉ちゃんの復讐を果たしたいですし、何より、大人がボロを出して必死に這いつくばる姿って、すごく見応えがありそうじゃないですか!」
「お前って、ドSだな……」
直斗が呆れ声で言った、その時――
ギィィ……。
廊下の奥から重い鉄扉が開く音がした。
続いて、極度に警戒するような、しかし確かな大人の足音が二つ、近づいてくる。
ひとつは重く、床を踏みしめるような足音。もうひとつは、小刻みでヒールの低いパンプスの音。
直斗は亜季と顔を見合わせ、大きく頷いた。亜季は素早く窓辺から降り、教室の暗がりへ身を隠す。
足音が教室の前で止まり、数秒の重苦しい沈黙の後――
軋む音を立てて引き戸が勢いよく開かれた。
廊下の非常灯の薄明かりを背に現れたのは、ジャージ姿の荒井と、紺のスーツを着た花村先生だった。
二人の顔には、明確な焦りと、それを覆い隠すための怒りが入り混じっている。
「誰だ……! あんなふざけた電話をかけてきやがって、卑劣な真似をする奴はどこだ!」
短気な荒井が、暗い教室を威嚇するように怒鳴った。
直斗は埃っぽい床からゆっくり立ち上がり、月明かりの当たる場所へ姿を現した。
「……こんばんは。荒井先生。花村先生」
「滝沢君……!?」
直斗を認めた瞬間、花村先生がヒッと短い悲鳴を上げ、一歩あとずさった。
荒井の顔が、驚愕から、みるみる赤黒い怒りへと染まっていく。
「お前か! そっちの暗がりにいるのは、七瀬の妹だな! ガキのくせに、教師を呼び出してこんな悪ふざけをして……ただで済むと思ってるのか!」
「悪ふざけ? そんなつもりは一切ありませんよ。俺たちは極めて真面目に、先生方とお話がしたいんです」
直斗は、冷たい口調で言い、スマホの画面を突き出した。
教師というプライドの高い人種の鼻をへし折り、すべてを白状させるには、最初が肝心だ。
再生ボタンをタップすると、暗い教室にバックライトが鮮やかに浮かび上がった。
画面の中で、周囲を気にしながら荒井の青いSUVの助手席に乗り込む花村先生の横顔が、はっきりと映し出される。
続いて、悪趣味な城の形をしたホテル『レイクサイド』の駐車場に、そのSUVが吸い込まれていく。
「なっ……!?」
「ああっ……嘘……!」
二人の顔から、暗がりでも血の気が引いていくのがわかった。
花村先生は口元を両手で覆い、ガタガタと全身を震わせる。
荒井の目は、信じられないものを見たように見開かれた。
亜季がニヤニヤしながら、いたずらっぽく言い放つ。
「先生たち、生徒には規律だのルールだの偉そうに説教しておいて、裏ではこんな関係だったんですね。……えっと、花村先生って確か、ご結婚されてましたよね。荒井先生も、いろんな子にセクハラしまくりだとか。その上、二人で休日にラブホテルで熱々な密会。うーん。これがみんなの耳に入ったら、いったいどうなっちゃうのかなあ」
「き、貴様……! どこまで大人を舐めた真似を……それをよこせ!」
荒井が逆上し、獣のような唸り声を上げて、スマホを奪い取ろうと直斗に飛びかかった。
その瞬間――
「待ってください! 荒井先生」
今度は亜季がスッと手を前に突き出した。そこにも、画面がまぶしく光るスマホが握られている。
「その動画、私もコピーして持ってますよ。しかもですね、あと一回送信ボタンを押せば、教育委員会の窓口と、ついでに某地元新聞のタレコミ用アカウントに、動画を送れるようにしてあります」
「お前! やめろ、そんな真似! ただじゃすまなくなるぞ!」
荒井が恫喝するが、亜季はまったく動じない。
「先生、そんなに興奮しないでくださいよ。立派な社会人なんでしょう? それに私たちだって、無差別にSNSで不倫動画を拡散するような、品位のかけらもない真似はしません」
悪魔のような、容赦のない宣告。
荒井の足が、床に見えない釘で打ちつけられたように、ピタリと止まった。
筋肉質の巨体が、暴力衝動を抑えようと、小刻みに痙攣している。
「お前ら……よりによって教師を脅迫するのか。こんな違法な盗撮までして、もう無事には済まされないぞ」
荒井は何とか威厳を保とうと、必死に声を静めるが、その震えが、内心の動揺をはっきり物語っていた。
一方の花村先生は、過呼吸のように肩を激しく上下させている。
「滝沢君……お願い……こんなことやめて。先生、本当にあなたを心配してたのよ」
絞り出すような声で、すがりつくように言う。
だが直斗は、静かに答えた。
「やめるわけにはいきません、先生。武も麻衣も、本当のことを何ひとつ話せないまま死んだんですから」
「なんですって!!」
突然、花村先生はヒステリックに叫んだ。
「尾崎君の件では親身に接してきたのに! それなのに、こんな卑劣な真似をするなんて! 先生を脅してなんになるの!? あなた、そんなひどい子じゃなかったじゃない!」
「先生、もう、生徒だから黙っていると思わないでください。感情的になってごまかそうとしても、無駄ですよ」
冷たく、しかし怒りのこもった直斗の声が、湿っぽい空気に響き渡る。
「それに卑劣で最低なのは、いったいどちらですか? 家族や世間の目を盗んで不倫し、保身のためにその真実を隠そうとしている先生方のほうじゃないですか」
「どういう意味だ!」
荒井が吠えるように言った。
だが、直斗は真っ向からそれを跳ね返した。
「もちろん事件のことですよ。俺は今でも、北川先生を殺した犯人は武ではないと確信しています」
「何を今さら……。警察の捜査で、とっくに結論が出てるじゃねえか」
「警察がどう言おうと関係ありません。俺が知りたいのは、ただひとつ――」
直斗は一歩、二人へ距離を詰めた。
窓から差す月明かりが、決意に満ちた横顔を照らす。




