第3話 孤独の王国
小学五年、秋が深まり始めた季節のことだ。
冷たさを帯びた風が、校庭の砂をさらさらと撫でていく。
西日を受けた鉄棒と校舎の影が、どこまでも長く伸びている。
十一歳の直斗は、ランドセルを背負って校門の前に立ち止まった。
帰り道はいつもと同じなのに、足が前に出ない。
家に帰れば、必ず母親が待っている。
玄関の扉を開けた瞬間から、『宿題は』『勉強は』『塾は』と矢継ぎ早に問い詰められ、少しでも言うことを聞かなければ、烈火のごとく叱りつけられる。
それが嫌で嫌でたまらなかった。
父親は昔から単身赴任をしており、一年中ほとんど家にいない。たまに帰ってきても存在は薄く、そこにいるのかどうかさえ曖昧だった。
一緒に遊んだ記憶も、今ではぼんやりとしか残っていない。
そんな父親不在の軋んだ家庭をひとりで支える母親は、常に苛立っていた。
その気持ちも、直斗は理解できなくはなかった。けれど、張り詰めた糸のような空気に満ちた家の中に、自分の居場所を見つけるのは難しかった。
あの家で、自分はこの先いったい何をどうすればいいのか――
それすらわからず、直斗の足元は、いつもおぼつかないのだった。
そうして立ち尽くしたまま、どれほどの時間が過ぎただろう。
「ねえ、直斗。……今日、帰りたくないんでしょ?」
ふいに後ろから声をかけられ、はっとして振り向いた。
麻衣が、やや距離を置いて立っている。
笑ってはいるのに、その瞳にかすかな寂しさが浮かんでいた。
「まあな……」
言い当てられて、思わず視線を逸らす。
「やっぱりね。でも、私も同じだよ」
「え?」
直斗は顔を上げる。
幼馴染として、麻衣の家庭の事情は多少知っていた。
学校でも、常にトップの優等生で、誰からも好かれる麻衣。
彼女はこの辺りでも有名な地主の長女で、大きな屋敷に暮らす四人家族。優しい父、美しい母、ひとつ下の可愛い妹――
周囲から見れば、何ひとつ不自由のない家で育っている。
それなのに、家族の話になると、いつもどこか寂しそうな顔をする。
実は麻衣は、今の父親と血が繋がっていない。生まれてまもない頃に両親が離婚し、その後すぐに母親が再婚したからだ。
そして、妹の亜季。
亜季は再婚後に生まれた子で、とにかく可愛く、両親の愛情は自然とそちらに注がれてしまうらしい。そのせいか、同じ家にいながら、姉妹らしい会話もほとんどないという。
家族の輪の中で、麻衣だけがどこか外側にいる――そんな印象を、直斗は昔から抱いていた。
「……ちょっと、寄り道しよっか」
昔からの仲とはいえ、麻衣が学校帰りに直斗を誘うのは珍しかった。
「どこに?」
「杉の木公園の向こう、裏の森。前から気になってたの。誰も来なさそうだから」
少し迷ってから、直斗は頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
森の中は、外とはまるで別の世界だった。
湿った土の匂いが鼻をつき、足元には落ち葉と枯れ枝が厚い絨毯のように積もっている。
歩くたびにかさり、と乾いた音が響き、その小さな音さえ心細い。
かなりの距離をあてどなく進むうち、急に視界が開けた。
木々に囲まれ、外からはほとんど見えない、小さな空き地。
その瞬間、直斗の胸がざわついた。
――ここに、居場所を作りたい。
ぼんやりとした衝動が、すぐにはっきりと形を持った。
ここなら、誰にも見られない。
小言も、怒鳴り声も届かない。帰らなくていい理由が、ここにできる気がした。
「……ここ、俺たちだけの場所にしない?」
麻衣はちょっと驚いた顔をして、それからゆっくり頷いた。
「うん。いいね」
その言葉を合図に、二人は夢中で「秘密基地」作りを開始した。
太い枯れ枝を集め、木と木の間に組み上げていく。
ぎこちない手つきでも、少しずつ形になっていくのがわかる。
時間を忘れ、無心で手を動かすうち、胸の奥の重たいものが、ゆっくりほどけていった。
ところが――
「……何してるんだ」
唐突に、背後から低い声がした。
振り向くと、同級生の尾崎武が立っていた。
転校してきて数ヶ月。
人を寄せつけない雰囲気で、いつもひとりでいる少年。
ひときわ背が高く、無口で表情も乏しい。
話しかけづらい――クラスの誰もがそう感じていた。
直斗も麻衣も、どこかで彼を避けていた。
「つけてきたの?」
麻衣が恐る恐る聞く。
「別にそういうわけじゃねえよ。偶然だ」
武が横に軽く首を振る。
「えっと……その、秘密基地を作ってて……」
直斗が戸惑いながら答えると、武はしばらく無言で二人を見つめた。
冷たい目だった。
だが武は、足元の太い枝を拾い上げ、その横にしゃがみ込んだ。
「……壁は、根元から組んだ方が倒れない」
短くそう言って、手を動かす。
節を噛み合わせ、枝を組む。無駄のない動きで、みるみる骨組みが形になっていった。
「すごい……!」
「別に」
ぶっきらぼうだが、どこか照れたようにも聞こえた。
その後ろ姿には、不思議な温かさがあった。
――こいつも、帰りたくないんだな。
理由はわからない。けれど、それだけははっきり感じられた。
その日から、三人で基地を作る日々が始まった。
武は相変わらずほとんど会話をしないが、作業をする時だけは真剣で、ほんのわずかに笑うような表情を見せた。
麻衣が飾りつけを工夫すると黙って頷き、直斗が屋根に苦労していると、何も言わず手伝う。
そこには確かな、友達としてのやり取りがあった。
数日後、ついに秘密基地は完成した。
小学生三人が作ったとは思えない、立派な出来だった。
「やったな」
「やったね」
「……ああ」
完成した小屋の中に、直斗、麻衣、武の順に腰を下ろす。
多くを語らなくても、やり遂げた達成感と不思議な連帯感が、三人の間に自然と生まれていた。
ふと、麻衣が口を開く。
「ここ、落ち着くね」
「家より静かだからな」
思わず、直斗と麻衣は武の顔を見た。
武が自分の家のことを口にしたのは、それが初めてだった。
「……うち、母親がいると酒ばっか飲んでて、うるせえんだよ。普段は仕事で遅いから、なんとかなるけど」
「おまえ……」
「だから、ここがいい」
武は、小屋の壁にそっと手を触れた。暖かい焚き火を見つめるような、穏やかな目だった。
直斗も麻衣も、胸の奥がじんわり熱くなる。
三人は、肩を並べたまま黙っていた。
言葉は少なくても、同じ孤独を抱えていると知ったとき、目に見えない何かがそっと結ばれた気がした。
それからしばらく経ち、森に晩秋の気配が濃くなった頃――
その日、武はいつもの時間になっても現れなかった。
小屋で待つ直斗は、葉擦れの音がやけに大きく感じられ、何度も入口に目を向けた。
「遅いね」
麻衣が、小さな棚を直しながら言う。平静を装っているが、指先がかすかに震えていた。
「……もしかして、家で何かあったのかな?」
「大丈夫だよ、あいつなら」
麻衣の心配に、直斗がそう答えた直後、枯れ葉を踏む音がした。
武だった。
いつもより背中が丸く、歩幅も小さい。小屋に入る時、わずかに身体をかばうように身をよじる。
ふと、麻衣の視線が止まった。
「……武」
シャツの襟元がはだけ、赤黒く変色した痣が覗いている。
「それ……どうしたの」
武は一瞬だけ動きを止め、顔を背けた。
「なんでもねえよ。転んだだけだ」
「……うそ!」
麻衣の声が、思った以上に強く響いた。武の肩がぴくりと揺れる。
「……いいだろ、別に」
「よくないよ」
直斗が立ち上がって近づくと、武の袖の下にも別の痣が見えた。指の形が、はっきり残っている。
「それ、誰かにやられたんじゃないか?」
重い沈黙が落ちた。小屋の隙間から吹き込む風が、三人の間をすり抜ける。
「……母親だよ」
武はぽつりと言った。
「ちょっと手が出ただけだ」
「ちょっとじゃない!」
麻衣の声が震える。
「殴られてるじゃん……こんなの」
「ババアも疲れてるんだ。仕事きついし、オレを食わせるためだし。それはわかってる」
「それでもだよ――」
麻衣が声を張り上げる。
「それでも、殴っていい理由なんてない!」
「いいんだ……それより、先生にはちくるなよ。絶対に」
「でも……」
「ばれたら、終わる」
顔を上げた武の目は、怒りではなく、はっきりとした怯えを宿していた。
「あんなのでも一応母親だ。警察に捕まれば、オレは施設送りだ」
直斗の胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「でも……武がこんな風に傷つくの、見てられない」
麻衣が、目を潤ませて武を見つめる。
「大げさだな。こんなの、たいしたことねえ。もう慣れてる」
「……慣れるって、何だよ」
直斗は思わず叫んだ。
「そんなの、おかしいだろ!」
武は何も返さなかった。ただ足元の土を見つめて、ぽつりと言う。
「ここがあるから……大丈夫だ」
「え……?」
「ここに来れば、怒鳴られない。殴られない。ちゃんと、息ができる」
直斗は、ゆっくりと武の隣に座った。麻衣も反対側に腰を下ろす。
三人の肩が、そっと触れ合う。
「ここはさ」
麻衣が、静かに言う。
「帰りたくない子どもが、逃げてきていい場所だよね」
「逃げる、か。ちょっと情けねえな」
「違うよ」
直斗は首を振った。
「生きるためだ」
「……生きるため、か」
武は小さく繰り返し、何度も瞬きをした。
「先生に言うかどうかは、武が決めればいい。それまでは俺も麻衣も、絶対誰にも言わない。……麻衣もいいよな?」
「……うん」
武の表情が、いくらか緩む。
「……ありがとな」
気がつけば、辺りはすっかり暗くなっていた。木々の隙間から、晩秋の夜空に冷たい光の星が瞬き始めている。
小屋の中が、しんと静まり返った。
けれど、言葉はいらなかった。
寂しさは消えない。
それでも、同じ寂しさを抱えた誰かが隣にいる。
ほんの少しだけ、夜を越えられる気がした。
――そんな武に、人が殺せるはずがない。




