第26話 残された切り札
駅前のロータリーに戻ると、ますます強まる容赦ない日差しがアスファルトに反射し、直斗の額にじわりと汗が滲んだ。
亜季を連れ、例の昭和めいた純喫茶のくすんだガラス戸を押すと、間の抜けたベルが鳴り、コーヒー豆の香りが鼻をくすぐった。
休日の昼時なのに客はまばらで、冷房のよく聞いた薄暗い店内に静かなジャズが流れている。
麻衣と一緒だった前回と、ほとんど同じ光景だ。
佐々木はすでに到着しており、一番奥のボックス席に座って、持参したノートパソコンで忙しそうに仕事をしていた。
だが、二人に気づくと、微笑みを浮かべて立ち上がった。
「やあ、滝沢君。待っていたよ。よく来てくれたね」
「お忙しいところ、すみません」
「構わないさ。私も君のことが、ずっと気になっていたからね。……それで、そちらの方は?」
佐々木の視線が、物珍しそうに店内を見回している亜季に向いた。
「あ、紹介します。この子は七瀬亜季。……亡くなった、麻衣の妹です」
「どうもー、七瀬亜季です!」
「えっ……」
佐々木の表情に、かすかな驚きが走った。
「君がそうだったのか……。なんと言葉をかけていいか――お姉さんのこと、本当に残念だった。心からお悔やみ申し上げるよ」
佐々木は深く頭を下げたが、亜季はあの小悪魔めいた笑みで首を振った。
「お気遣いありがとうございます。でも、お互い不幸な身の上同士ですから、しんみりするのはなしにしましょう。――それより私、お腹ペコペコなんです。お昼、ごちそうになってもいいですか?」
「おい亜季! それはいくらなんでも図々しいだろ……」
慌てて制止しようとしたが、佐々木は一瞬ぽかんとした後、フッと柔らかく笑った。
「ははは、そうだね。悲しんでばかりいても、お腹は減る。好きなものを頼むといい。ここはナポリタンが絶品らしいからね」
「ラッキー! じゃあ私はナポリタンと、食後にこのデラックスパフェもお願いします!」
ちゃっかり一番高いメニューを要求する亜季。
だが佐々木は嫌な顔も見せず、ウェイターを呼んで注文を済ませる。
やがて、直斗と亜季の前にアイスコーヒー、佐々木の前にホットコーヒーが置かれた。
それを一口飲んでから、直斗はいきなり尋ねた。
「佐々木さん。今日お会いしたかったのは、確認したいことがあったからなんです」
「なんだい? 私に答えられることなら、何でも言うよ」
「この前――ラブホテルに入っていく荒井と、担任の花村先生を見た件ですが」
その言葉に、佐々木はカップを持ち上げかけた手を、ピタリと止めた。
「ああ、もちろん忘れてない」
「あの二人の不倫の件、警察には話したんですか? あ、この子には全部話してあるので、気にしないでください」
もし佐々木がすでに警察に話してしまったのなら、あのホテル・レイクサイドの動画はほぼ無価値になる。
だが、佐々木は首を横に振った。
「いや。警察には何も言っていない」
よかった。最後のカードは、まだ失われていなかった。
直斗は胸をなでおろしたが、それを顔には出さないようにした。
佐々木が続けて言う。
「結局あの日、二人の写真は撮れなかったしね。それに、冷静になって考えれば、彼らが不倫関係にあってもそれがそのまま京子を殺した証拠にはならないだろう。それを証言しても意味がない。私怨で他人の不倫を暴いて公にするような真似はしたくないんだ」
「そうですか……。じゃあ佐々木さんは、北川先生を殺した犯人は、誰だと思ってるんですか?」
「それは――君には言いにくいが、やはり、彼だったんだろう」
佐々木は言い淀むように視線を伏せ、コーヒーカップを両手で包み、しばらく黙って卓上の一点を見つめる。
その横顔には、怒りでも悲しみでもない、何かが完全に燃え尽きた後のような虚ろさがあった。
「警察の調べでは、彼が首を吊ったネクタイから京子のDNAが検出されたそうだ。つまり、そのネクタイが京子の首を絞めた凶器だったんだ」
「それは、俺も聞きました……」
「だから今は、警察の捜査結果を受け入れるしかないと思っている」
佐々木の口から出たのは、山田刑事とまったく同じ、無機質で残酷な『結論』だった。
「……待ってください。俺はそれでも、犯人は別にいると思っています」
直斗は淡々と言い返した。
この人とは、無駄な言い争いをしたくない。
隣でナポリタンを頬張っていた亜季が、そんな直斗をチラリと見上げる。
「武は真犯人に罠にハメられたんです。誰かが罪を着せるために、武のネクタイを盗んで、それを使ったんです」
「……だが、君は現場を見たんだろう? 密室ではなかったにせよ、第三者が二人を殺害し、尾崎君をあの杉へ吊るす。そのすべてを誰にも見つからず実行するのは現実的に可能だろうか?」
言葉は丁寧だが、結局、言っていることは警察と同じ。
佐々木ですら、こうだ。
「尾崎君が罪の重さに耐えきれず、一番信頼していた幼馴染にすべてを打ち明け、そして……麻衣さんに自首を勧められたのかもしれない」
「あー、確かに」
パフェをつつきながら、亜季が口をはさんだ。
「その可能性、警察の人も言ってました。それなら納得です。お姉ちゃん、そういう人でしたから。むしろ絶対そうするかも」
――おい! いったいどっちの味方だよ……!
直斗は思わず亜季を睨んだ。
だが、亜季は平然としている。
「……とにかく、すべての状況から、私はそう判断した」
佐々木の声は優しく、直斗を気遣っているように聞こえた。
しかしその優しさは『事実を受け入れろ』という、無慈悲な宣告に他ならない。
まただ。
また誰も、武を――そして自分を信じてくれない。
「……そうですか。わかりました」
直斗は深く椅子にもたれ、氷が溶け、量が増えたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
これ以上話しても無駄だという、重たい徒労感が全身を覆う。
「すまないね、滝沢君。君の期待に沿える答えを持っていなくて」
「いえ……いいんです」
それからしばらく、テーブルには気まずい沈黙が流れた。亜季だけが、運ばれてきた巨大なデラックスパフェを、幸せそうに平らげている。
「それじゃあ、私たちはこれで」
最後の一口を飲み込んだ亜季が、ナプキンで口元を拭って立ち上がった。直斗も席を立つ。
「ああ、気をつけて帰りなさい。……滝沢君、つらいだろうが、君の人生はまだこれからだ。過去にとらわれすぎず、前を向いて生きてほしい。京子も、きっとそれを望んでいるはずだから」
直斗は適当に会釈だけして、亜季と店を出た。
外に出ると、さっきよりさらに強烈な日差しが、頭上から降り注いだ。
直斗は無言で、駅の改札へ歩き出した。
佐々木と話すのも、たぶんこれで最後だろう。
「……先輩」
少し後ろを歩いていた亜季が、ふいに声をかけてきた。
直斗は苛ついて答える。
「なんだよ。パフェ、美味かったか?」
「ええ、とっても。ごちそうになっちゃいました」
亜季はくすくす笑いながら横に並び、すっと声のトーンを落とした。秘密の悪戯を共有するように囁く。
「でも、あの佐々木って人……本当に信用できるんですかね?」
直斗の足が、ピタリと止まった。
「は? どういうことだよ?」
「だって、おかしいじゃないですか。大切な恋人が殺されたのにあの冷静な態度。普通、もっと取り乱したり、犯人に怒りをぶつけたりするものじゃないですかね。むしろあの人、『武先輩が犯人で、ホッとしている』みたいに見えましたよ」
「ホッとしてる……?」
「それに……」
亜季は直斗の顔を覗き込み、あの黒い瞳を細めた。
「極端な話、あの人だって、北川先生に振られたとか、逆に邪魔になって殺しちゃったとか、そんなこともあるんじゃないですかね。エリートで頭はよさそうだし、偽装工作なんてお手の物かも?」
「おい! いきなりなんてこと言い出すんだよ……」
「別に。ちょっと疑問に感じただけです。百パーセント想像ですけど」
「だろ。俺にはいいけど、他の人にあんまりいい加減なこと言うなよ」
言葉とは裏腹に、ドクン、と心臓が大きく跳ねていた。
以前、佐々木がこう言っていたのを思い出したのだ。
『事件の夜は、京子のマンションに行って帰りを待っていた。しかし遅くなっても帰ってこず、日付が変わる頃に警察から連絡があった』――と。
つまり、事件のあった午後八時ごろに、佐々木がマンションにいたことを証明できる人間はいない。
そしてもうひとつ、ひどく気になることがある。
佐々木と会った日の、麻衣のことだ。
思い返せば、あの日を境に彼女の様子は明らかに変わった。
自分とさえ、まともに目を合わせようとしなくなった。
なぜだ――?
事件を目撃したショックだけでは説明できない、あの尋常ではないふさぎ込み方。麻衣は、何か別の、もっと大きな秘密を抱えてしまったに違いないのだ。
そう考えると、佐々木もまた、疑ってかかるべき相手なのかもしれない。
「……大人って、嘘をつくのが上手いですからね」
そんな直斗の心を知ってか知らずか、亜季は楽しそうに笑い、くるりと背を向けて歩き出した。
「どうします、先輩? 容疑者がまたひとり、増えちゃいましたよ」
振り返りもせず、後ろ手にひらひらと手を振る亜季の背中を見つめ、直斗はその場に立ち尽くした。
だが、今は佐々木の疑惑については後回しだ。
真実に近づくために、第一に追及するべき相手は決まっている。
――荒井だ。




